title.gifBarbaroi!
back.gif火の城


創作



地下墳墓







 わたしはバスの停留所を探していたのだが、誰もがそんなものは聞いたこともないと言う。探し疲れて四つ辻に立ち止まり、さてどちらに行ったものだろうかと迷っていたとき、角にある建物の電光時計板が、こっそりと808を示しているのに気がついた。バスはもう出発してしまったのかもしれない。そんな考えがふっと浮かんで、わたしはひどく胸さわぎがした。
 電光時計板の下の暗がりに、黄色いレインコートが立っていて、ぼんやりした白い顔がわたしの方を見やっていた。わたしは思いに沈みながら、そっちの方に吸い寄せられるように近づいて行き、もう何度も口にしたことを尋ねた。
 「バスの停留所を探しているんですが、どこにあるか知りませんか。きっとこのあたりじゃないかと思うのですが………」
 表情のない顔が、話しかけているわたしにずっと向けられていた。
 「ええ」と、聞きおぼえのある声が暗がりの中から返って来た。「あるとすれば、もちろんこの通りにあるのですわ。でも、どうしてそんなものを探していらっしゃるの?」
 「ぼくはこの街におさらばしようと思うのです。もうたくさんです。雨は降りつづくし、猫にさかりはつくし、気味の悪い虫が這いまわるし、子供はびいびい泣くし、もううんざりです。それで、この街を出るバスの便があると聞いて探しているのですけど、あなたは知りませんか?」
 「もちろん知っているように思いますわ。多分あっちの方じゃないかしら………」
 指さされた方角にわたしは急いだ。すると女の声がわたしの背中を追いかけて来た。
 「でも、バスはもう発車したころですわよ。もう間に合いませんわ」
 それでもわたしは走りだした。走りながら、今にも停留所の標識が見えるような気がしたが、近づくと、それは街路樹だったり、さもなければ道路標識だったりした。わたしはますます疲れきって、同じ道をまた引き返して来た。すると同じ場所に黄色いレインコートが見えた。
 「あなたは、どうしてこんな所に、いつまでも立っているのですか?」
 わたしはにやにやしながら尋ねた。たしかに、わたしには相手を侮辱してやりたい気があった。
 「だって、あなたのように道を尋ねるひとが居るでしょ。それに、時間を尋ねるひとだって居ますわ。そういうひとに、わたし、教えてあげますの」
 「しかし、停留所はありませんでしたよ」
 「まあ」と、女はかすかな驚きとも非難ともいえぬような声をあげた。「そんなものを知っていなければならない理由が、何かありまして?」
 もちろん、そんな理由などありはしない。もうどうだっていい。どうせこの街から出ることなどできない相談だ。そこで二人は肩を組んで、何を話すでもなく街をさまよった。
 本通りからそれると、やっと二人が並んで歩けるぐらいの狭い路地に、客商売の店とその看板とが、ごたごたとつづいていた。まだひとけのないさびれた時刻で、汚物のこびりついたポリバケツが転がる路上には、腐れた魚の頭が散らばっていた。
 迷路のようにいりくんだ路地をぐるぐるまわって、やっとのことで小さな空き地に出ることができた。空き地の隅には公衆便所があって、消し忘れられた裸電球が、さめざめとした光を投げかけていた。そして、うす汚れた壁には、両膝を立てて仰向けに寝た女の、あつかましくもみだらな姿が落書きされていた。酒くさい反吐のにおいに胸をむかつかせながら、わたしは、いつかもこれとそっくりなことがあったような気がしたが、どうしても思い出すことができなかった。
 二人はぬれたベンチに腰かけて、ちょろちょろ流れる噴水を眺めていた。
 「ぼくは小さいころ子供だった。子供のころ小さかった。同い年の子供たちもみんな小さかった。みんな兄さんや姉さんが居た。どちらも居ない者だっていた。かわいそうなひとりぼっち。ぼくには姉さんが居た。兄さんは居なかった。と思う。よく思い出せない。どうしてなんだろう。どうして。ぼくは姉さんが好きだった。姉さんはいつも笑っていた。姉さんは白痴だった。かわいそうな姉さん。ぼくはいつも姉さんの手を引いて遊びに連れて行った。姉さんはにこにこ笑っていた。小さい子も大きい子も姉さんをからかった。でも姉さんはいつも笑っていた。日が暮れるとぼくはいつも姉さんの手を引いて家に連れて帰った。いつもそうだった。ぼくは姉さんが好きだった。ある日のこと姉さんの姿が見えなくなった。日暮れになっても姉さんは帰って来なかった。ぼくは姉さんを捜しに出かけた。西の空が燃えるように赤かった。広場はがらんとしていた。長い長い影法師。姉さーん。姉さーん。白痴の姉さーん。ぼくはどんなに捜したことか。そして姉さんのためにどんなに泣いたことか。迷子の迷子の姉さーん。広場の片隅に使われなくなった共同便所があった。幽霊が棲んでいるのでぼくたちはだれも近づかなかった。その中で裸にされた姉さんは吊されていた。内股を血に染めて………夕陽に染まった姉さんの白い身体を、ぼくはうっとりと見あげていた」
 「それからどうしましたの?」
 「それから日が暮れて夜が来た。それからぼくはひとりぼっちになった。ひとりぼっちで生きてきた」
 「わたしは女を抱き寄せると、その小さな唇をすすった。ひとりの盲人が、白い杖でさぐりながら、公園を横切ろうとしていた。そして噴水の所まで来ると立ち止まって、抱き合った二人の方に、しなびた眼をゆるゆると向けた。
 「わたしたち、見られているのじゃありませんか?」
 女はわたしに身を任せながらささやいた。


 あのバスに乗って、去年の春、ぼくたちはレルヘンベルクに花見に行った。「カスパル、カスパル、ごらんになって!」と、彼女はひばりのようにさえずりまわっていた。そしてどしゃぶりの雨がやって来て、ぼくたちはびしょびしょになった。それでも彼女は、雨にうたれた桜の花びらの洪水を見て、「カスパル、カスパル、ごらんになって!」とさえずっていた。


 「今さらどうにもなりませんわ。どうしようもありませんわ」
 袖を肘のところまでまくりあげ、腕のあたりをぎゅっとつかんで、彼女は部屋の中を歩きまわりながらそう言った。


 わたしは大げさな身ぶりで、腕をふりあげたり、歩道をぴょんぴょん跳びはねたりしながら、まるで告発者のようにオルガを指さしてなじった。そして、再びぐったりと彼女の肩にしなだれかかった。オルガは横を向いてさめざめと泣いているらしかった。わたしは急に彼女があわれになって、彼女の頬を舐めながらささやいた。
 「ねえ、オルガ。ぼくはあなたのご主人に嫉妬しているんです。早く死ねばいいとさえ思っているほどなんですよ。そして、ひとりぼっちになったあなたを、ぼくは訪ねて行きます。ぼくは大きな花束を持って、あなたの部屋の扉をこつこつ叩きます。あなたはさみしい声で、どうぞと言います。ぼくは扉を開けて、そしてあなたを見てにっこり笑うのです。そうやってぼくは求婚するんです」
 「でも、わたしは主人を死なせはしませんわ」
 オルガはおびえたような声で言った。


 明時の月の下で、寝取られた男が、畑を耕していた。


 むかしむかし、ひとりの正直な男が居たんだよ。その男は、たいそうな働き者で、朝はまだ星のあるうちに起き、夕べは陽がとっぷりと暮れるまで、それはせっせと畑を耕していたんだよ。そんな或る日のこと、悪魔のやつがやって来て、畑の隅の大きな木の切り株に腰をかけて、正直者の男が働くのを、あくびをしながら見ていたのさ。男がひたすら畑を耕して、悪魔の座っている木株のところまで来たとき、悪魔のやつが声をかけたんだよ。
 「おいおい、おやじさんよ。わしが居ては邪魔かね?」
 「うんにゃ」と、正直者の男は、鍬を持った手を休めようともせずに答えたんだよ。「わしらはみな同胞(きょうだい)じゃねぇか。何が邪魔なもんかよ」
 そう言うと男は、向きをかえて、またせっせと耕して行ったのさ。
 二度めに男が木株の所まで耕して来たとき、やっぱり悪魔のやつが声をかけたんだよ。
 「おいおい、おやじさんよ。おまえさんはよく働くなぁ。ちったぁ一服したらどうだね」
 「うんにゃ」と正直な男は答えたんだよ。やっぱり鍬をふりあげながらね。「お天道さまは待っちゃくれねぇだよ」
 そう言って男は、またせっせと畑を耕して行ったのさ。
 三度めにも悪魔が声をかけたんだよ。なにしろ、すっかり退屈していたもんだからね。
 「おいおい、おやじさんよ。おめぇさんのために、おれにできることは何かないかね?」
 「うんにゃ、何もねぇだよ」
 悪魔のやつは、気をくさらせてしまって、切り株の上に寝そべると、働き者を眺めながら、あれこれと悪だくみを考えていたのさ。
 やがて夜になって、正直者の男が帰ったあとで、悪魔のやつは、見わたすかぎりの畑を残らず耕したんだよ。なんせ悪魔というのは、たいそうな力を持っているからね。そうして切り株の上に寝ころんで、男が来るのを待ちかまえていたのさ。
 正直者の男は、いつものように、まだ空に星のあるうちから畑にやって来たんだよ。そして、すっかり耕された畑を見ても平気の平左、男はまた最初から畑を耕しだしたのさ。
 驚いたのは悪魔。正直者のところへとんで行った。
 「おいおい、おやじさんよ、いったい何をおっ始めようというのだい? 畑は、これこのとおり、おれが夜のうちにすっかり耕しておいてやったじゃないか」
 すると働き者の男は、鍬をふる手を休めもせずに、悪魔にむかって答えたんだよ。
 「だから言ったでねぇけ。おまえさんがおらのためにしてくれることは何もねぇ。ほんに何もねぇだよ」
 そして男は、わき目もふらずに畑を耕して行ったのだよ。明時の月の下でね。
 悪魔のやつは、すごすご引きさがって、切り株の上に寝ころぶと、正直者の仕事ぶりを、やっぱりあくびをしながらずっと見ていたのさ。
 キケリキー、夜が明ける。今夜のお話はこれでおしまい。寝ろてばねねえかこの餓鬼め。


 囚人服を着て檻の中を歩きまわる。灰色の監房。高窓から見える太陽は黄色くしなびている。「歩調を合わせろ!」看守が怒鳴りちらす。イッチニ。イッチニ。鎖を引きずりながら、狭い監房を際限もなくぐるぐると歩きまわる。


 おれは溺死しかかった人間の意識を厳密に再現してみたい。ずるずると水中に引きずりこまれる瞬間、がらんとした青空に両腕をつき出し、なにかにしがみつこうとする手の最後のあがき、その瞬間のほとんど生理的なメランコリアを再現してみたい。
 ああ、おれは溺死だけはしたくない。それよりも、鋼鉄の機会体の下から、肉塊となってずるずると引きずり出され、夏の太陽をぎたぎたと反照したほうがましだ。
 何はともあれ、このひからびた人生を、おれは足を引きずりながら生きてゆくしかない。黄ばんだ霧と煙の這いずる広場を、よろめきながら横切る老いぼれのように。そのしなびた顔をふり向けて、どんより濁った眼球で見返る時、顔に刻まれた幾千の皺が、すなわち人生の無意味を立証するんだ。これ以上に確かな確証はどこにもない。そしておれは、這いずる霧と煙のかなたに、暗くよどんだ淵の中に、腐れた腕をさしのべて、ゆるゆると沈んで行くんだ。犬の遠吠えが狂おしい夜に。おお、このイメージはすばらしいぞ。ぼくは疲れきって、老いぼれて、ぼろぼろになって、ねばっこい霧の中に消えてゆくんだ。溺死者のように舞いながら。これがぼくの最期になることを祈りながら。


 時間ならまだある。使われたあとの乱れたシーツの上で、悲劇にもならぬ二人の別離について語りあうぐらいの時間なら、まだいくらだってある。それから、汚れた口をすすぎ、ゆっくりとタバコをくゆらせて、そしてぬるいコーヒーをかきまぜながら、死人に満ちた三面記事を読んだって、それでもまだ政治欄まで読んでしまうくらいの時間はある、あるさ。


 さめざめとあくびする街を、すばらしい虚無を実感しつつ、おれは帰った。おお、雨月の街よ、ひからびた観葉植物を孕んだと言って、おれの情婦は怨めしそうな眼をしていたっけ。五番街の公衆便所のところで、骨ばかりの身体をしたカーラ氏が、どきどきするような大鎌を肩にかついで、ひと待ち顔で立っているのを見つけた。おれがにんまりして話しかけようとしたら、やつは唇のない口に指をあてて、シーというようなかっこうをしてみせた。そして、おれを便所の陰の暗がりに引っぱりこんだ。それでおれも小声になって、こんな所で何をしているんだ、それにこんな物騒なものをかつぎ出してどうするつもりなんだ、と尋ねた。するとカーラ氏は、怪訝な顔つきをして、しなびた眼球でおれをまじまじと見つめた。おれはやつの顔を見ていると、いつも胸くそが悪くなる。
 「いったい」と、カーラ氏はひどくかすれた声で言った。「どれくらいあんたを待っていたと思うんだ。みんなおれをじろじろ見やがって、のんだくれめらが馬鹿にしくさって、へッ、いったいおれを誰だと思ってやがるんだ。おまけに待ち人きたると思ったら、とんだ御挨拶というもんだ」


 下級裁判所は、マルコルフ氏の財産はすべて親類縁者によって分配さるべしとの判決を下した。財産といっても、かれにはもう破産寸前の旅館が一軒残されているだけだったけれども、かわいそうに、マルコルフ氏はその日から泊まるところもなくなってしまった。しかし、かれの弁護士は自信ありげに、上級裁判所に控訴すれば判決はひっくり返ると保証した。
 「というのは」と、弁護士はひげをしごきながら眠たそうに言った。「判決はいつも気まぐれです。したがって、いかなる判決も、それで確定したということはないのです」
 とにかく、下級裁判所の判決がけっして最終的なものではないということは、マルコルフ氏にとっては唯一の慰めであった。かれは、裁判所から帰るとすぐに自分の荷物をまとめ、上級裁判所のある大都会に出発する支度にとりかかった。かれは下男を呼びつけて言った。
 「いいか、おれたちはまだ完全に敗けたってわけじゃないのだぞ。したがって、好むと好まざるとにかかわらず、おれたちはまだ戦わねばならん」
 下男は玉葱をかじりながら、せわしげに出発の準備をしている主人を見おろしていた。
 「へい、だんな。どっちにしろ、望みがあるってことはいいことでさ」


 マルコルフ氏はK街の角を曲がったところで、ひとりの見知らぬ男とばったり出くわして、危うくぶつかりそうになった。そのためお互いに抱き合うような形になって、まじまじと相手の顔を見あわせた。
 「やッ、シュルツさんじゃありませんか」
 相手の男はとんぎった声で叫んだ。その声はK街にりんりんと響きわたり、暗い夜空に駆けぬけた。
 「シュルツさん、ぼくです。ほら、ぼくですよ」
 見知らぬ男は、自分の顔をマルコルフ氏の鼻先に厚かましくつき出して見せた。かれの口のまわりには無精ひげが生えていて、ひげの一本一本に汗の玉がとまってきらきらしていた。マルコルフ氏は放心したようにそれを見つめていたが、やがて顔をそむけると何ごとかを口ごもりながら言った。相手の男はマルコルフ氏の肩に手をまわして抱き寄せ、自分の顔をさらに近づけて、くさい口臭を吐きかけた。
 「シュルツさん、ぼくです。ほら、ぼくですってば」
 男の声はますますとんぎって、まるで虫の鳴き声のように、ほとんど意味が聞きわけられないほどだった。
 「親友を忘れるなんてひどいじゃありませんか。ほら、よく見てください。わたしの顔を見てくださいよ。こちらをごらんなさいってば」
 見知らぬ男は、今度はマルコルフ氏の首に腕をまきつけ、いとしそうにかれの顔をぺろぺろ舐めずりまわした。K街のごちゃごちゃ建てこんだ家並みの上に、大きな月がするする昇り、屋根の上にはさかりのついた猫が尻尾をぴんと立てていた。
 「やめなさい。やめなさいったら。みっともないじゃありませんか」
 マルコルフ氏はうろたえて叫んだ。しかし見知らぬ男はますます強い力でかじりつき、ますますしつこく接吻をくりかえす。マルコルフ氏はほとんど窒息しそうになって、しゃにむに身をもがいた。すると男は急にぐったりして、マルコルフ氏の肩に顔をうずめると激しくすすり泣いた。
 マルコルフ氏は見知らぬ男と肩を組んで、かれの身体を支えてやりながらK街を歩いていた。男はいよいよ無力になってぐんにゃりしていた。そのため、男の身体はだんだんずり落ちて、しまいにはマルコルフ氏もあきらめて、腕の一本をつかんで、男の身体を地面に引きずって歩くことにした。路上には魚の頭が転がっていて、奇妙な二人をどんよりした眼で見送っていた。
 やがてマルコルフ氏は三人の女が歩いて行くのに追いついた。
 「この男が、ぼくのことをシュルツだと言うのです」
 地面に長々とのびている男を指さしながら、かれは山高帽を取ってうやうやしく話しかけた。
 「まぁ、シュルツさんですって! なつかしい名前ですこと」
 一番目の女が、派手らしくパチンと指を鳴らして言った。その声はK街にきんきんと鳴り響いた。
 窓がひとつあって、独身男がチェロを弾いていた。
 「わたしたちはレルヘンベルクに行くところです」
 二番目の女が冷やかすような視線で言った。


 けだものが二匹いて、よく見ると、血みどろ汗みどろになってさかりあっている。太陽がひとつあって、枯れ葉のように黄ばんでいる。老いぼれの女が一人いて、腰巻きをからげて小便している。おお、その子宮はひからびている。小鳥が一羽いて、羽をむしられふるえている。月が出て、また沈んだ。星が出て、ぽろぽろ落ちた。砂漠があって、赤い岩が影を曳いている。言葉がひとつあって、誰からも忘れられている。人人人人人がいて、誰が誰やらわからない。巡査が一人いて、呼び子を吹き鳴らしながら走っている。ひとけのない街路があって、ずっと遠くまで続いている。窓があって、病気の顔がのぞいている。寝室があって、乱れたシーツが凍えている。生首がひとつあって、低い声で歌っている。風が吹いて、あたりが叫喚のように鳴り響いて、ざーめんを洩らして、そいつがねばねばして、息が苦しくなって、ぜえぜえして、まっくらになって、風が吹いて………


 やがて街路の向かい側にポリボックスを見つけると、マルコルフ氏は自動車がびゅうびゅう行き交う車道を勇敢に横切って、その前まで男の死体を引きずって行った。ポリボックスの中には、こうこうと光が満ちあふれていて、それを背にしてひとりの若い巡査が、腰に両手をあてて入り口に立ちはだかり、近づいてくるマルコルフ氏をずっと眼で追っていた。もうひとりの巡査が、机にむかって一心に書きものをしていた。
 マルコルフ氏は、入り口に立ちはだかっている巡査の前まで男を引きずって行くと、「これがわたしをシュルツと間違えたやつです」と、ていねいに帽子をぬいで訴え出た。
 「なんだぁ、これは?」
 若い巡査は、疑わしそうにマルコルフ氏を見やりながら、地面に長々とのびている男を顎でしゃくって尋ねた。


 「まぁ、ごらんなさい」と、取調官は調書をわたしの前に投げ出して言った。「これだけでは、あなたが主張されるような正当防衛かどうか、とても判断なんか下せませんよ」
 「あなたは狡いですよ」と、わたしは苦笑しながら言った。「ぼくはこんなに話すつもりじゃなかったんですよ。それをあなたは、雑談のついでに聞き出してしまったんですからね。まぁ、書き取られてしまったことは仕方ありませんけど、ぼくはもう事件についてはもう一言も話しませんからね」
 そう言うと、わたしは足を組んでそっぽを向いてしまった。鉄格子のはまった窓のむこうに、冬色の雲が低くたれこめていた。
 「しかし、これだけじゃ正当防衛の立証にならないってことは、あなたにもわかっているでしょ」
 取調官は、再び熱心に調書を取りながら、愛想よく答えた。
 「それは、そうかもしれませんが………」
 「そうなんです。殺害の動機を白状してもらわんことには、本官も助けてあげることができないのです」
 「もちろん、それはわかるんですが、殺害の動機といわれても、よく思い出せないんです」
 「そんな馬鹿な!」
 取調官は、荒々しく机をどんと叩いた。
 事態はのっぴきならぬ方向に進展し始めた。しかし、わたしはバスの出発時刻が気になって、取り調べが早く終わらないものかとじりじりしていた。


 見あげると、空には一面に鉛色の雲がかぶさっている。かなり高い歩道橋がとどくかと思われるほど、雲は低く厚くたれこめている。歩道橋の上を、それほど多いというわけではないが、それでも人がひっきりなしに往来している。顔はよく見分けがつかない。まるで音もなく行き来している影のようなものだ。歩道橋の手前は少し入り込んでいて駐車場になっている。タクシーが次々と入って来て、また出て行く。駐車場の横がバスの停留所になっている。オルガは停留所の柱にもたれて、歩道橋を降りてくるひとを眺めていた。もうかなりの時間が経っている。


 マルコルフ氏が眼をあげたとき、小さな北窓の外を何かがすっと動いたように思った。それはほんの一瞬のことだったが、細面の仮面をつけ、おどろおどろしく髪をふり乱し、黒いマントをひらめかせた影が、かれの書斎をのぞきこみながら通りすぎたように思った。マルコルフ氏は胸をしめつけられるような不安を感じて、あわてて窓から眼をそらした。そこには一匹の大きなゴキブリが、長い触覚をゆっくりとうごめかしていた。マルコルフ氏は部屋全体がゆがんでゆくような気がした。「ほんのちょっとした錯覚さ」と、かれは自分に言いきかせた。


 女の身体がぼくの右足に絡まりついている。ぼくはかまわずに歩いた。教室に行くと、学生たちが講義を受けていた。担当教官がぼくを認めると、何かの書類を示して、「ここにとどまってはどうか」と尋ねた。ぼくは、「いや、行かなければなりません。この女を見捨てるわけにはいきません」と答えた。見ると、女はぼくの足もとで泥まみれになって弱っていた。泥が眼や口や鼻につまって、今にも窒息しそうになっている。それでもぼくの足にしがみついて、その手を離そうとしない。ぼくは女があわれになって、背中をさすってやった。すると女は、口から泥をげろげろ吐いた。


 マルコルフ氏が、ある日の夜おそく、人通りもまばらなK街を急いで通りすぎようとしていたとき、かれは何だか背筋がぞくぞくするのを感じた。それはちょうど、背中の皮膚がぺろりと引き剥がされ、夜風がすうすうと吹き抜けるようにえぐり取られていて、そこに自分というものが呑みこまれてしまうような感じであった。これはいかん、とかれは思った。今年も悪性の風邪が流行している。ついさっき別れて来たばかりのオルガも、流行性感冒にやられていて、「キスはだめよ」なんて言っていた。しかし彼女があまりにも怨めしそうな顔をするので、ついついキスしてしまった。といっても、それは口の端の方でちゅっとやる御義理のやつだ。ところが彼女はそれでもやはり怨めしそうな顔をしていた。まったく女というやつは度しがたい。それやこれやで、二人とも白けた気分になり、裸のまま長いこと寝そべっていたのが悪かった。あれですっかりやられたに違いない。いまいましいあまだ。考えれば考えるほど、マルコルフ氏の背中は何だかひどく虚しい感じがする。女のアパートからこそこそ帰る下司野郎の虚しさもこんなものかな、とかれは考えてみる。


 じとじと暑い夏の陽の下を、情事に疲れはてた男と女が、ものうく歩いていた日のことを思い出しながら、かれは一心不乱にガリ版を切っている。


 それは、例えば、真夏の昼さがりに、遠くひっそりと続く白い骨のような路を眺めるときの気分だ。あのがらんとした、敷石からペンペン草がぽうぽうと生えている、さびれた広い路。


 女のアパートの階段を二三段ずつ駆け降りて、かれは市街の方へと急いでいた。終バスには間に合わないかもしれない。それというのも、女にせがまれてぐずぐずしていたのが悪かった。今夜にかぎって女はひどくおしゃべりだった。今夜は帰したくない、泊まっていって、わたし神経がいらだってどうにかなってしまいそう、もう淋しくて淋しくて………などと、なかなか離そうとしなかった。かれは何を言うでもなく、布団にくるまって壁ぎわにぴったりと身体をくっつけ、こうしているとおれはまるでゴキブリみたいだな、と思っていた。
 深夜の街には、それでもまばらな人影があったし、時おり自動車がひたひたと走り過ぎて行った。街路の片隅には、大きな青や赤のポリバケツが二つ三つと寄せ集められ、そこからこぼれ落ちた汚物があたりに散らばっていた。それにしても今は何時なんだろう。かれはひどく胸さわぎがして、立ち止まってぐるりとあたりを見まわした。すると、ちょうど十字路の角の建物から電光時計板がつき出していて、それが三つの零を示していた。その下の暗がりに身をひそめて、ひとりさみしい女がタバコを喫っていた。まだ時間はあるだろう。なに、なくったってかまやしない、とかれは考えをめぐらしていた。明日まではいつも長いのだ。
 横断歩道の信号灯が、注意信号を明滅させていた。
 「あなたも、たしか、今夜の集会に出ておられましたな」
 おしころしたような男の声に、かれは驚いてふり返った。
 「えッ、何の集会ですか?」
 「なに、隠される必要はありません。じつはわたしも出ておったのです」
 すべすべした顔に品のない微笑を浮かべた男が、暗い天空に顔を向けて立っていた。


 あなたがたは、まるで目の前に餌をぶらさげられた馬のように生きている。ところで、餌をぶらさげている者は誰なのか。それはあなたがた自身なのだ。そうやって、あなたがたは、人生という空白を駆けぬけるのだ。
 しかし、わたしが駆けるのは、あなたがたとは違うのだ。わたしにはこの空白が耐えられない。だからこそ、わたしは駆けずりまわっているのだ。
 あなたがたは、前向きにまっしぐらに走る。わたしは同じ所をぐるぐる走りまわる。


 空がぬけるようですね。いい天気ですね。くたばりかけているのですか。そうですか。何でもいいけど憂鬱ですね。海老入りマカロニグラタン。それからぬるいコーヒー。こうまでして、どうして生きているんでしょうね。不思議ですね。


 慰め以上のことは、おまえにも武器があるということだ。おまえは戦いつづけねばならないだろう。


 ぼうぼうと空が吠える夜、マルコルフ博士は病院の一室で書き物をしていた。窓の外から博士の部屋をのぞきこんだ者の気配を感じて、かれは窓の方に目をやった。しかしそこには深い闇があるばかり。それに、かれの部屋は二階にあるので、ひとがのぞけるはずがない。「悪魔なら別だが」と、博士はつぶやいて、自分のばかげた考えに頭をふり、再び書き物に没頭した。やがて風は雨をともない、窓ガラスを横なぐりに叩き始めた。博士は書き物の手を休めて、暴風雨の猛りたつ声にぼんやり聞き入っていた。そのとき、窓ガラスを打ち砕いて風雨がどっとなだれこんできた。ガラスの破片が飛び散る。カーテンが風をはらんでばたばたとはためく。机の上の書類が散乱する。置物が音をたてて壊れる。そしてマルコルフ博士が気づいて見ると、かれの机の上に、苦痛に顔をゆがめた人間の生首が転がっていた。ぬれた髪がざんばらになって、顔にべったりとへばりついている。首の部分は引きちぎられたように皮膚がびらびらしている。そして血が顔面に飛び散っていて、雨滴といっしょにしたたっている。「なんということだ!」博士は手に持っていたペンを投げ出して叫んだ。「これはとんでもない乱暴狼藉だぞ」


 ぼくは寝台の上にあぐらを組んで、さてこれからどうしたものかと考えていた。すると寝室の扉を乱暴に押し開けて、泥酔した兄がよろめきながら入って来た。そして床の上にごろんと身を横たえると、わけのわからぬことをしきりに口ばしっていた。そんな兄を、ぼくはやっぱり寝台の上にあぐらを組んだまま、だまって観察していた。兄はほとんどアルコール中毒で、最近では精神錯乱の兆候さえ示しているのだ。ぼくの机の上にあった犬の置物を、兄はしばらくおびえたように見つめていたが、いきなりそれをつかむと、窓ガラスめがけて投げつけた。当然のことながら、ガラスは割れてしまった。兄は完全に狂ってしまったらしい。寝室からとび出すと、包丁をひっさげて駆けもどり、ぼくに襲いかかってきたのだ。二人は組あったまま、寝室から転がり出た。ぼくが兄と争っているすぐ傍らで、父はしきりに野菜を刻んでいた。ぼくが殺されかかっているのも知らない様子である。ぼくは助けを求めて、父を足でこずいた。すると父は、手もとが狂ったと言って、ぶつぶつ怒りながら、自分の指をしきりに野菜の中に刻み込んでいた。


 アルジュナよ、戦え。そしてくたばっちまえ。


 かれは男の手を引いてやりながら、そろそろと横断歩道を渡って行った。男の手は冷たく、そのうえかさかさしていた。
 「わしらはもう戦い疲れ、こんなにも老いぼれてしもうた」
 男は、見えない眼をかれの方に向けて、ひどく沈んだ声で言った。
 「あなたのことは皆が期待しておるのです。すぐれた闘士になられるかただと、オルガはそう言うて、わしらの心に希望の灯をともしてくれました。わしらの時代は過ぎたのです。どうかこのまま置き去りにしてくだされ」
 男は立ち止まり、もう一方のかさかさした手でかれの手をふりほどくと、その場から動こうとはしなかった。
 かれは老いぼれをそのままに、急ぎ足で地下道へ降りて行った。


 黒いコートに身を包んで、誰にも知られず、ただ自分の心の暗黒をのぞきこみながら彷徨した時代の、あの精神は何処へ逝ってしまったのか? あのころ、おれはただ生存というむきだしの糸の上を這いずる蜘蛛にも等しかった。おれは誰からもかえり見られることなく、蜘蛛のようにかさかさにひからびて、蜘蛛のように険悪な眼をぎらつかせながら、蜘蛛のように地面を忍び歩いたものだ。あの凄絶な精神は何処へ逝ってしまったのか?


 そろそろと手をのばしてみたが、壁らしきものにも行きあたらない。上の方にものばしてみたが、天井らしきものにも行きあたらない。しゃがみこんで下の方をさぐってみたが、どれだけ手をのばしても何にも触れない。落下しているのかといえば、そうでもないらしい。もちろん上昇しているわけでもあるまい。心もとないのでだんだんちぢこまって、胎児のように丸くなって転がっている。そうやって何年かがすぎた。肩のところをぎゅっとつかんでみると、ひどく骨ばっている。背中がぞくぞくする。背中の皮でも剥がれてしまったのだろうか。どうもそんな気がする。ぽけっとから風呂敷を取り出し、それを広げて上に座ってみる。心もとないが、まだましだ。そうやって何年かがすぎた。ひどい頭痛がするので、頭に手をやってみる。ところがどうしたことだ、頭がない。そろそろと風呂敷の上をまさぐってみる。やっぱりどこにもそれらしきものはない。そのくせ頭のあたりがぎりぎり痛む。あんまり痛いので風呂敷の上を転げまわる。そして自分の身体をすっぽりと包みこむ。まるで荷物のように包みこんで、そうやってまた何年かがすぎた。
                         (1974.07.)
back.gif名作選
back.gif野次馬小屋・目次