生は暗く、死も暗い
再び石原吉郎 私は、何ものをもそして何ものにたいしてもついに賭けなかった。青春ということを賭けるということとほとんど同義であると考えれば、私には青春というものが全く存在しなかったにひとしい。私が青春を失ったということはありえない。青春を失ったといえる時は、失うに足る青春を所有していたことになるが、私にはそのようなものは存在しなかったのだ。一切をひとつのことがらへ賭けて敗れた時、その時青春を失ったということはいえるであろう。その時、彼は<無からの創造>の立場に立つ。 私はあてもなく街を歩き、たまたま通りすがりの映画館の低俗きわまる絵看板を見上げる。『今は名もない男だが』というのがその映画の題名だ。その映画の主人公は、ただトランペットひとつに一切を賭けた青年である。私は身ぶるいする。トランペットに一生を賭けることだってできるのだ! だが、「だって」とはなんだろう。それは、トランペットに「こそ」人生を賭けることができるということと全く同義ではないか! 賭けるということの本質はまさにそのようなことなのだ。賭けるとは、数多くのものの中から最もよいものをえらび出すことではない。というのは、その時、賭けるという行為だけがすべてであるからである。賭けるもの、賭けられるもの、それによって失うであろうもの、獲得するであろうもの、それら一切は究極的には賭けるという行為の前には無意味である。 しかし、そのような危機に人はいつ立つことが*できるか*。それはまさに<運命>として来る。賭けるという危機的な行為の前に立つとき、選択の自由はすでに失われている。その時、彼はとらえられているのであり、何ものかによって逆に、「賭けられて」いるのである。 賭のパトスは絶対的な喪失に九分どおり賭けているという戦慄に存する。その時彼は99%までの敗北を予感しているのである。勝利の機会はただ1パーセントである。確率的にはどうあろうと、心理的にはまさにそうである。客観的に賭の偶然性を支配する確率の法則と、賭ける者の情熱とは全く別のものである。勝利した時の喜びは、むしろ奇妙な期待はずれの失望感をまじえた安堵にさえ似ている。だから彼は再び賭けるのだ。彼は負けるまで賭ける。あたかも、賭は負けなければならないものであるかのように。敗北することにこそ賭の目的があるかのように。 確率論の上からいえば50%ずつの確率が存在しなければ、賭は成立しない。しかし、二つの場合の確率が単に50%ずつあるというのはいわば無関心の立場であって、賭をおこなうものには、その一方に圧倒的な関心があるのであり、そのような幸運に絶望的な情熱と関心を注げばこそ、その確率を1%とするのである。 私は賭をそのように理解する。そして、私は何ものにもついに賭けなかった。賭けるに価するものがこの世に存在しなかったのではない。私にデーモンが、勇気がなかったのである。 ◇相当に難解な文章であるが、「賭ける者の情熱は放棄する者の情熱とまさに同じものである」と言えば、あるいは、理解の一助となるかもしれない。賭けるという行為にとって、何に賭けるかという対象は問題ではない。損得感情の打算が入り込む余地はない。それではいったい何のために賭けるのか?みずからの生を確かめるために、生きて在ることの確証を得るために、とでも言えばよいであろうか。それ以外の何ものをも得るものではないから、賭とは、絶対的な喪失に向けて、虚無に向けて、賭けることであるとしか言いようがない。しかし、だからこそ、かけるという行為は純粋なのであり、また、賭がそういうものであるからこそ、それは自己の内なるデーモンの働きであるとしか言いようがないのである。 しかしながら、行為だけがあって何も得るところがないような、ついには絶対的な喪失に至るような行為を、はたして誰がよく為し得るか?――などと深刻ぶることはない。じつをいえば、誰もが1日1秒を賭けているのである。ただそのことを自覚していないだけなのである。明日の次にも明日が来ると思い込んでいるだけなのである。 |