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兔と亀




 フランス近代の作家ルナール(1864-1910)の『にんじん』は、忘れがたい書物の一冊だ。中でもルピック氏の次の一言は、ぼくの記憶から消え去ることは永久にあるまい。すなわち、旅行でパリに行くという父親に宛てて、ルソーかヴォルテールの本を一、二冊買って来てほしいと手紙で依頼した*にんじん*に対して、父親ルピック氏の返事はこうだった。――

 親愛なるにんじん殿
 御申出の文士は、其許(そこもと)や余らとなんら異なるところなき人間だ。彼らが成したことは其許も成し得るわけだ。せいぜい本を書け。それを後で読むがよかろう。――

 われわれ凡人と天才とを隔てるものは、ただ努力の差にすぎない。努力さえすれば、誰しもがやがては天才の高みに達することができるであろう。「天才をつくるもの、その1%は霊感であり、99%は発汗である」というエディソンの言葉は、凡庸ではあっても常に向上することを忘れぬわれわれに、どれほどの慰めと励ましとを与えてくれることか!

 しかしながら、ぼくは、兔と亀の駆けくらべというあの寓話に不快感を禁じ得ない。亀の歩みの鈍(のろ)さを笑った兔の愚かさもさることながら、駆けくらべの途中で眠りこんでしまった兔を尻目に、その傍をのそのそ歩き過ぎてゆく亀、目的地の丘の上に立ち上がり、あわてふためいて走ってくる兔を見下ろしながら、誇らしげに旗(なぜか日の丸の旗)を振っている亀の姿―― そういったものを何の疑いもなく是認しているあの寓話の精神ともいうべきものが不快である。相手のしくじりによって得た勝利に、いったいどんな喜びがあるというのか。

 恐ろしいことだが、駆けることにおける兔と亀との能力の差は歴然としている。亀が苦しみながら成し遂げる100歩を、兔はわずか10歩で成し遂げてしまうであろう。ただ、兔の誤りは、能力は多様なものだということ、そして、速く駆けるだけが能ではないということに気づかなかった点にある。あの寓話に何か意味があるとすれば、それは、兔には有利で亀には不利な駆けくらべにおいてさえ、時間の遅速を問題にしなければ、到達するのは同じ地点であるということぐらいであろうか。「ひっきょう、努力しない天才よりも、努力する鈍才の方が余計に仕事をするだろう」――ジョン・アヴェブリー――

 見るところ、兔のいない亀の世界で、しかも勉強というあまり自分の得意としない*ひとつの*能力を競う場において、大した努力も払っていない諸君に対してぼくの言いたいことはいつもひとつだ。すなわち、兔の駿足を羨んではならないということ、また、亀の世界に安住してはならないということである。自分は常に自分でしかありえない。しかし、その自分は、常に成長の可能性を秘めた存在であり、今の自分は常に乗り越えられるべき対象として存在するものにほかならない。

 「蟹は己の甲羅に似せて穴を掘る」という諺がある。人間はそれぞれ己の「甲羅」(限界)に見合った人生しか歩むことはできないのだ。しかしその「甲羅」は、ちょうど蟹が脱皮してさらに大きく成長するように、より大きく拡げ得る可能性を秘めている。
 だが、蟹は何の苦しみもなく脱皮するのであろうか。自己の人生を十全に生きようと欲するならば、人は自分自身で苦しい脱皮を繰り返してゆかなければならない。それがエディソンのいう99%の発汗の意味であろう。その努力の極限において何が見えてくるか――それをわれわれは自分の肉眼で確かめねばならない。駆けくらべが駆けくらべで終わるかぎり、亀は兔にほとんど常に負けるであろうし、たとえ勝つことがあったとしても、後に残るのは丘の上で日の丸を振っている亀のぶざまな姿のみであろう。

 高校2年の担任としての業務は本日ですべて終了した。そして全員が何とVI年生に進級したことを報告しておこう。しかし、そのことで安堵している者がいるとしたら、あるいは通知簿を手に他との比較において一喜一憂している者がいるとしたら、ぼくは悲しみ憤らずにはいられない。

 いったい、われわれが求めているものは何なのか? われわれの目的は駆けくらべに勝つことではない。例えば駆けくらべを通して、自分の可能性を試すことであるはずだ。そういう自己成長を忘れた者を、ぼくはほとんど人間とみなすことができない。

 最後に次の言葉を君たちに贈ろう。
  人間は努力するかぎり迷うものだが、努力するかぎり救われる。
                     ――ゲーテ『ファウスト』――
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