title.gifBarbaroi!
back.gif兔と亀
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最善は生まれ出ぬこと




◇運命の導くままに、知らずして父親を殺害し、知らずして母親を妃とし、二人の間に子どもまでなしたオイディプス王の悲劇については、すでに諸君も知っているとおりである。あの悲劇がわれわれを圧倒しさるのは、運命の呪縛を逃れることはできないという恐ろしさゆえにではない。また、父を殺し母を犯すという忌まわしさゆえでもない。どれほど忌まわしい事実であろうと、己にかかわる一切を白日のもとに曝さないではおかないという、オイディプス王の激情――これがわれわれを圧倒しさる。

 真実はしばしば残酷なものである。非力な人間の世界には、知らない方がよかったと思えるようなことが多く存在する。しかしながら、知ることを愛し求めるのは人間の本性でもある。まして真実に殉じようと願う者は、例えばオイディプス王のごとく、真実の物残酷さをも身に引き受けるだけの覚悟、精神の強靱さを持たなくてはならない。

 すべてが明かとなった時、オイディプス王はどうしたか? 自殺などはしなかった。激情に駆られて自分の両目を突き刺しはしたが、呪われた者・不浄の者としての自分の運命をなおも引き受けようとするのである。すなわち、盲目の身となって、自分の娘であると同時に妹にもあたるアンティゴネーに手を引かれながら、国を追われ、放浪の旅へのぼる――何ものにも屈伏することなきその精神をまのあたりにして、われわれは深い感動を禁じ得ない。

 この『オイディプス王』という悲劇を書いたソポクレスは、オイディプス王の最期を取り扱った作品『コロノスのオイディプス』で、合唱隊に次のように歌わせている。
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   生まれ出ぬことが最善である。
   しかしながら、ひとたび生まれ出たからには、
   できるかぎり速やかにもとの場所にもどること、
   これが次善である。

 こんなことを言ってのけるギリシア人の精神にぼくは畏怖を感じる。死の思想のないところには、すさまじい迫力の生きざまもまたないのかもしれない。

◇自分とは何か? 数種類の元素の化学的化合物、精子と卵子の偶然的結合の産物、父なる男と母なる女との性交の残り滓にすぎず、そうやって自分は生まれさせられたのであって、それ以上でもそれ以下でもない――などとほざいている諸君! 何ものをも恐れることなく(ということは、父母の悲しげな顔もたんなる感傷として切り捨て、まして道を説く人のしかめ面など気にするでもなく)事実を直視しようとするその姿勢をぼくは先ず高く評価したい。

 確かにわれわれは存在を強制的に与えられたものである。自分がこの世に生を享けるか否かにつて、われわれは一度でも相談を受けたことがあるだろうか。生まれてやってもよいと承諾を与えたことがあるだろうか。否だ。われわれのまったく関知せざるところで、男と称するヒトの牡と女と称するヒトの牝とが、血みどろ汗みどろのさかりあいをやったのだ。その結果としてわれわれは生まれた。

 われわれに生を強制することによって、男は父となり、女は母となった。そしてわれわれは子どもとして、家族というひとつの運命共同体につなぎとめられることになった。このことは、われわれにとって生に対するかすかな(しかし或者にとっては根源的な)嫌悪感をいだかせずにはおかない*はず*だ。と同時に、強制されたこの存在を、自分は、受け容れるのかどうかということが、切実な問題にならずにはおかない*はず*だ。この痛切さこそ、青春の苦悩と呼ぶにふさわしい。

 ところが、自分とは性交の残滓にすぎないなどとぬかしている諸君の言説には、そういう痛切さがどこにも見受けられない。これはどうしたことか。思うに、諸君にとって「生まれさせられた」ということは単なる他人ごと、”I was born.”の少年の言葉を借りれば、それは「単なる文法上の単純な発見」にすぎないということだろう。自分は生まれさせられた――ダカラドウナノカということを自分の問題として述べないかぎり、諸君は自分について何をも述べなかったに等しいのだ。

◇自分とは何かという問いに対しては、自分で答えを出してもらうしかないが、精子や卵子を持ち出しても始まらないということだけは言えそうだ。自分は生きてきたし、*今ここに*こうして生きている――この事実だけは絶対に動かしようがない。この絶対の事実をあらゆる思索の基点に据えること。
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