最善は生まれ出ぬこと
アイヒマンの告発 ◇原民喜の『夏の花』も、しょせん君たちにとっては活字の残骸にすぎないのであろうか。人間の悲惨さ、無念さを目の前にしながら、安らかな眠りに就くことのできる精神は、とうていぼくの理解の及ばぬところである。 ヒロシマの悲劇はどこにあるのか? 多くの人間がむごたらしく死んだ(殺された)というところにあるのではない。 石原吉郎に再び登場ねがって、その厳しい告発に耳を傾けようではないか。 =========== 確認されない死のなかで ――強制収容所における一人の死 =========== 百人の死は悲劇だが 百万人の死は統計だ。 アイヒマン ジェノサイド(大量殺戮)という言葉は、私にはついに理解できない言葉である。ただ、この言葉のおそろしさだけは実感できる。ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、*ひとりひとりの死*がないということが、私にはおそろしいのだ。人間が被害においてついに自立できず、ただ集団であるにすぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままであるだろう。死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名で呼ばれなければならないものなのだ。 「みじかくも美しく燃え」という映画を私は見なかった。だが、そのラストシーンについて嵯峨信之氏が語るのを聞いたとき、不思議な感動をおぼえた。映画は、心中を決意した男女が、死場所を求めて急ぐ場面で終るが、最後に路傍で出会った見知らぬ男に、男が名前をたずね、そして自分の名を告げて去る。 私がこの話を聞いたとき考えたのは、死にさいして、最後にいかんともしがたく人間に残されるのは、*彼が*その死の瞬間まで存在したことを、誰かに確認させたいという希求であり、同時にそれは、彼が結局は*彼として*死んだということを確認させたいという衝動ではないかということであった。そしてその確認の手段として、最後に彼に残されたものは、彼の名前だけだという事実は、背すじが寒くなるような承認である。にもかかわらず、それが、彼に残されたただ一つの証しであると知ったとき、人は祈るような思いで、おのれの名におのれの存在のすべてを賭けるだろう。 いわば一個の符号にすぎない一人の名前が、一人の人間にとってそれほど決定的な意味を持つのはなぜか。それは、まさしくそれが、*一個の*まぎれがたい符号だからであり、それが単なる番号におけるような連続性を、はっきりと拒んでいるからにほかならない。ここでは、疎外ということはむしろ救いであり、峻別されることは祝福である。 私がこう考えるのは、敗戦後シベリヤの強制収容所で、ほぼこれとおなじ実感をもったからである。 私は昭和24年から25年にかけて、バイカル湖西方バム鉄道沿線の密林地帯で、25年囚としての刑に服した。この時期は私たちにとって、入ソ後二回目の<淘汰>の時期を意味した。最初の淘汰は、入ソ直後の昭和21年から22年にかけて起り、長途の輸送による疲労、環境の激変による打撃、適応前の労働による消耗、食糧の不足、発疹チフスの流行などによって、8年の抑留期間中、もっとも多くの日本人がこの期間に死亡した。またこの期間は、何人かの捕虜と抑留者が、自殺によってみずからの死を例外的にえらびとった唯一の期間でもある。 この淘汰の期間を経たのち、死は私たちのあいだで、あきらかな例外となった。私たちの肉体は急速に環境に適応しはじめ、生きのこる機会には敏速に反応する、いわゆる<収容所型>の体質へ変質して行った。 このような変質は、いうまでもなく、多くの人間的に貴重なものを代償とすることによって行なわれる。しかしこの、喪失するものと獲得するものとの間には、ある種の本能、人間の名に値する瀬戸ぎわで踏みとどまろうとする本能によって、かろうじてささえられるきわどいバランスがあって、人がこのバランスをついにささえきれなくなるとき、彼は人間として急速に崩壊する。淘汰の時期の衰弱のはばが、環境の変動のはばよりもはるかに大きかったのは、このためであって、栄養失調の進行は、予想していたよりも(私たちは一回目の淘汰の経験から、当然それを予想できた)はるかに急速であった。 この時期に私は、ふたたび多数の使者を目撃しなければならなかった。第一の淘汰を切りぬけたものが、第二の淘汰に耐えなかったという事実の痛みは大きい。しかし、それが痛みとなって記憶にのぼるのは、それから数年後である。死者にかかわっているどのような余裕も、そのときの私にはなかった。飢餓浮腫の徴候は、私自身にもすでにはじまっており、粗暴な囚人管理のもとでは、誰が生きのこるかということは、ただ数のうえでの問題であって、一人の個人の関心の枠をすでにこえていたのである。 栄養が失調して行く過程は、フランクルが指摘するとおり、栄養の絶対的な欠乏のもとで、文字どおり生命が自己の蛋白質を、さいげんもなく食いつぶして行く過程である。それが食いつくされたとき、彼は生きることをやめる。それは、単純に生きることをやめるのであって、死ぬというようなものではない。ある朝、私の傍で食事をしていた男が、ふいに食器を手放して居眠りをはじめた。食事は、強制収容所においては、苦痛に近いまでの幸福感にあふれた時間である。いかなる力も、そのときの囚人の手から食器をひきはなすことはできない。したがって、食事をはじめた男が、食器を手放して眠り出すということは、私には到底考えられないことであったので、驚いてゆさぶってみると彼はすでに死んでいた。そのときの手ぎたえのなさは、すでに死に対する人間的な反応をうしなっているはずの私にとって、思いがけない衝撃であった。すでに中身が流れ去って、皮だけになった林檎をつかんだような触感は、その後ながく私の記憶にのこった。はかないというようなものではなかった。 「これはもう、一人の人間の死ではない。」私は、直感的にそう思った。 私にとってそのとき、確かなものは何ひとつ未来になかった。ただ、いつかは*自分も死ぬ*ということだけが、のがれがたく確実であり、そのことを時おり意地わるく私自身に納得させることで、「すくなくとも、今は生きている」という事実をかろうじて確かめ、安堵していたにすぎない。だが「死ぬ」という言葉は囚人のあいだでは、すでに禁句に近いものになっていた。自殺ということは、この時期には、ほとんど私たちの念頭にのぼることはなかった。にもかかわらず「生きる」というたしかな意志表示は、もはや誰の顔にもみられなかった。誰もが、「しばらくは死なないだろう」という裏がえしの納得で、かろうじて生きようとする意志を表明していたにすぎない。5年生きのびることさえおぼつかない環境で、20年囚が25年囚に示すあらわな優越の表情は、このことをよくものがたっている。 「これはもう、一人の人間の死ではない」と私が考えたとき、私にとっては、いつかは私が死ぬということだけがかろうじて確実なことであり、そのような認識によってしか、自分が生きていることの実感をとりもどすことができない状態にあったが、私の目の前で起った不確かな出来事は、私自身のこのひそかな反証を苦もなくおしつぶしてしまった。 しかし、その衝撃にひきつづいてやって来た反省は、さらに悪いものであった。それは、自分自身の死の確かさによってしか確かめえないほどの、生の実感というものが、一体私にあっただろうかという疑問である。こういう動揺がはじまるときが、その人間にとって実質的な死のはじまりであることに、のちになって私は気づいた。この問いが、避けることのできないものであるならば、生への反省がはじまるやいなや、私たちの死は、実質的にはじまっているのかも知れないのだ。 人間はある時刻を境に、生と死の間(あわい)を断ちおとされるのではなく、不断に生と死の領域のあいまいな入れかわりのなかにいる、というそのときの認識には、およそ一片の救いもなかったが、承認させられたという事実だけは、どうしようもないものとして私のなかに残った。 私がそのときゆさぶったものは、もはや死体であることをすらやめたものであり、彼にも一個の姓名があり、その姓名において営なまれた過去があったということなど到底信じがたいような、不可解な物質であったが、それにもかかわらず、それは、他者とはついにまぎれがたい一個の死体として確認されなければならず、埋葬にさいしては明確にその姓名を呼ばれなければならなかったものである。 その男が死んでしばらくたったある寒い朝、一人のルーマニア人が森林伐採の現場で、切りたおされた樹の下じきになって死んだ。氷点下40度に近い極寒の日であったため、腐敗のおそれのない彼の死体は、夕方まで現場に放置され、作業終了後、橇で収容所へはこばれたのち、所内の営倉へ投げこまれた。 その夜、バラックの施錠に近い時刻に、夜間の使役を終えた私は、なにげなく営倉に立寄ってみた。営倉は半地下牢であったため、ほぼ上から見おろす位置でなかの死体を見ることができた。死体は逃亡のおそれがないとみられたわけであろう、営倉へ半分押しこんであるだけで、開かれた戸口から外側へはみ出た下半身は、あきらかに俯伏せていた。私の目がその下半身をたどって、雪明りのなかで上半身にとどいたとき、思わず私は息をのんだ。上半身が仰向いていたからである。死体の胴がねじ切れていたことに気づくには、それほどの時間を必要としなかった。私はまっしぐらにバラックへ逃げかえった。その時の私のいつわりのない気持は、一刻でもはやく死体から遠ざかりたいということであった。「あれがほんとうの死体だ」という悲鳴のようなものが、バラックの戸口まで、私の背なかにぴったりついて来た。 氷点下40度をすでにくだった気温にもかかわらず、むっと寝息のこもったバラックのなかで、最初に私が考えたことは「人間は決してあのように死んではならない」ということであった。 一人の日本人と一人のルーマニア人、この二つの死体の記憶をもって、私は、入ソ後の最悪の一年を生きのびた。私が生きのびたのは、おそらく偶然によってであったろう。生きるべくして生きのびたと、私は思わない。だが、偶然であればこそ、一個の死体が確認されなければならず、一人の死者の名が記憶されなければならないのである。 その後、私はハバロフスクへ移され、生命力の緩慢な恢復の時期に、かつて見たルーマニア人の死体を、悪夢のように憶い出すことがあった。人間は決してあのように死んではならないという実感は、容易に、人間は死んではならないのだという断定へ拡張された。それは今もなお変らない。人間は死んではならない。死は、*人間の側からは*、あくまでも理不尽なものであり、ありうべからざるものであり、絶対に起ってはならないものである。そういう認識は、死を一般の承認の場から、単独な一個の死体、一人の具体的な死者の名へ一挙に引きもどすときに、はじめて成立するのであり、そのような認識が成立しない場所では、死についての、同時に生についてのどのような発言も成立しない。死がありうべからざる、理不尽なことであればこそ、どのような大量の殺戮のなかからでも、一人の例外的な使者を掘りおこさなければならないのである。大量殺戮を量の恐怖としてのみ理解するなら、問題のもっとも切実な視点は即座に脱落するだろう。 生き残ったという複雑なよろこびには、どうしようもないうしろめたさが最後までつきまとう。さまざまな場所で私が出会わざるをえなかったどの他人の死も、手きびしく私を拒んだ。私は誰の死にも、結局は参加できずにとり残された。私はどんな他人の死からも、結局はしめ出された。そうしてこのような拒絶は、最後に自分が他人を、全世界をしめ出すときまで、さいげんもなくくり返されるにちがいない。生きている限り、生き残ったという実感はどのようにしてもつきまとう。単独な生者として、単独な死に立ち会わざるをえなかったことが、その理由である。 死は、死の側からだけの一方的な死であって、私たちの側ーー私たちが私たちであるかぎり、私たちは常に生の側にいる――からは、なんの意味もそれにつけ加えることはできない。死はどのような意味もつけ加えられることなしに、それ自身重大であり、しかもその重大さが、おそらく私たちになんのかかわりもないという発見は、私たちの生を必然的に頽廃させるだろう。しかしその頽廃のなかから、無数の死へ、無数の無名の死へ拡散することは、さらに大きな頽廃であると私は考えざるをえない。生においても、死においても、ついに単独であること。それが一切の発想の基点である。 私は広島について、どのような発言をする意志ももたないが、それは、私が広島の目撃者でないというただ一つの理由からである。しかしそのうえで、あえていわせてもらえるなら、峠三吉の悲惨は、最後まで峠三吉ただ一人の悲惨である。この悲惨を不特定の、死者の集団の悲惨に置き代えること、さらに未来の死者の悲惨までもそれによって先取りしようとすることは、生き残ったものの不遜である。それがただ一人の悲惨であることが、つぐないがたい痛みのすべてである。 さらに私は、無名戦士という名称に、いきどおりに似た反撥をおぼえる。無名という名称がありうるはずはない。倒れた兵士の一人一人には、確かな名称があったはずである。不幸にして、そのひとつひとつを確かめえなかったというのであれば、痛恨をこめてそのむねを、戦士の名称へ併記すべきである。 ハバロフスク市の一角に、儀礼的に配列された日本人の墓標には、今なお、索引のための番号が付されたままである。 ================ アイヒマンの告発 ================ 百人の死は悲劇だが 百万人の死は統計だ。 あるエッセイで、「広島について、どのような発言をする意志ももたない」とのべたことにたいして、その理由をたずねられた。手みじかにいえば、私が広島の*目撃者*でないというのが、その第一の理由である。人間は情報によって告発すべきでない。その現場に、はだしで立った者にしか告発は許されないというのが、私の考え方である。 第二の理由は、広島告発、すなわちジェノサイド(大量殺戮)という事実の受けとめ方に大きな不安があるということである。私は、広島告発の背後に、「一人や二人が死んだのではない。それも*一瞬のうちに*」という発想があることに、強い反撥と危惧をもつ。一人や二人ならいいのか。時間をかけて死んだ者はかまわないというのか。戦争が私たちをすこしでも真実へ近づけたのは、このような計量的発想から私たちがかろうじて抜け出したことにおいてではなかったのか。 「一人や二人」の*その一人*こそが広島の原点である。年の一ひとめぐりを待ちかねて、燈篭を水へ流す人たちは、それぞれに一人の魂の行くえを見とどけようと願う人びとではないのか。広島告発はもはや、このような人たちの、このような姿とははっきり無縁である。 「百人の死は悲劇だが、百万人の死は統計だ。」 これはイスラエルで、アイヒマンが語ったといわれることばだが、ジェノサイドはただ量の恐怖としてしか告発できない人たちへの、痛烈にして正確な解答だと私は考える。 広島告発について私が考えるもうひとつの疑念は、告発する側はついに*死者*ではないという事実である。被爆者不在といわれてすでに久しいが、被爆者以前にすでに、死者が不在となっている事実をどうするのか。死者に代って告発するのだというかもしれない。だが、「死者に代る」という不遜をだれがゆるしたのか。死者に生者がなり代るという発想は、死者をとむらう途すら心得ぬ最大の頽廃である。 死者がもし、あの世から告発すべきものがあるとすれば、それは私たちが、*いまも生きている*という事実である。死者の無念は、その一事をおいてない。死者と生者を和解させるものはなにひとつないという事実を、ことさら私たちは忘れ去っているのではないか。まして私たちは、それらの人びとの死を、ただ*数として*しのぐことによって生きのびたといわなければならないのである。 そしてもし私たちが、まぎれもない生者として、死者から告発されているというのであれば、そのばあいにも私たちは、生者とよばれる集団として告発されているのではなく、*一人の生者*として告発されているのだということを思い知るべきである。しかも*一人の死者*によって。 広島を「数において」告発する人びとが、広島に原爆を投下した人とまさに同罪であると断定することに、私はなんの躊躇もない。一人の死を置きざりにしたこと。いまなお、置きざりにしつづけていること。大量殺戮のなかのひとりの重さを抹殺してきたこと。これが、戦後へ生きのびた私たちの最大の罪である。量のなかの死ということへの私たちの認識は、とおくアイヒマンのそれにおよばぬことを、痛恨をこめて思い知るべきだと私は考える。統計的発想によって告発することの不毛を、まさにアイヒマン自身が告発しているからである。私たちがいましなければならないただひとつのこと、それは大量殺戮のなかの*ひとりの死者*を掘りおこすことである。よしんばそれによって、一人の死に、一人の死をこす重みをついに加ええぬにせよ。 原点へ置きのこした一人の死者という発想を私に生んだのは、いうまでもなく広島ではない。その発想を私にしいたのは、シベリヤのラーゲリである。だがこの発想が私にあるかぎり、広島は私に結びつく。そしてそれ以外に、広島と私との接点はない。 |