アイヒマンの告発
借り手にもなるな、貸し手にもなるな ◇ある日の担任会でのこと、生徒が教師に金を借りることについて問題提起をなさった先生がいらっしゃった。初めのうちは、何をおっしゃりたいのか理解しかねたが、どうやらその先生は、生徒が教師に金を借りるという馴れ馴れしさと同時に、教師が生徒にあまり深くも追求せずに金を貸すという気安さを批判したがっていらっしゃるらしいことがわかった。 というよりは、むしろ、借金を申し出る生徒に対する教師の気安さこそが、生徒の馴れ馴れしさを許容し助長するものとして、教師の姿勢をこそ、その先生は非難なさりたかったようだ。 そうなると、ぼくなどは非難の対象の筆頭に挙げられそうだが、ぼくは何の反論もしなかった。理屈としては道理にかなっていると、感心さえしていた。 ◇ただし、何を「馴れ馴れしさ」と考えるかについては、ぼくはその先生と大きく発想を異にしているように思う。思うというのは、その先生の言わんとするところがもうひとつよくわからないからである。 例えば、昔であれば教師に金を借りるなどということは思いも寄らないことであった。それほど教師というものは畏れ多い存在であった、とその先生はのたもう。(ヤレヤレ、本校には、その内実もないくせに、「三尺さがって師の影を踏むな」と吠えたがるような「師」を僭称する輩が多すぎる。こんな議論にぼくが取り合わなかったのは、もちろんである)。 ところが、一方では次のようなこともおっしゃる。 《生徒が金を借りに来ても軽々しく貸すべきではない。定期代を忘れたために定期が買えず、その日は何百円かの運賃を余分に払わなければならなかったとしたら、損をしたと思うだろう。あるいは、昼食代を忘れたために昼食を食べられず、その日は一日空腹を我慢しなければならなかったとしたら、昼食代を忘れたことを後悔するだろう。そういう体験を通して次からは忘れないようにしようと思う――そのことこそが大事なのであって、安易に金を貸さないということこそ教育的なのだ。》 なるほど。とすると、問題は、生徒が教師に金を借りることではなくて、金銭の貸借そのものの気安さが問題なんでしょう? それなら、生徒のことをとやかく言う前に、教師が教師に寸借する気安さ・馴れ馴れしさをこそ、問題提起してほしかったですなぁ。ぼくはいつもその被害者なのだから……。 ◇生徒が教師に金を借りることを、馴れ馴れしいことだとはぼくは思わない。どうしても借りなければならない場合には、むしろ教師に寸借することの方が、仲間に寸借する時よりも、貸借関係がはっきりしているので、好ましいことだと思う。だから、「仲間に金を借りるな。必要なら担任から借りよ」と常々ぼくは言っているのだ。(そうか! あの先生は、ぼくのこの指導方針が気に入らなかったのか。それならそうと言ってくれればいいものを。ぼくとしたことが、今ごろ気がつくとは迂闊な!)。 ぼくの言う「馴れ馴れしさ」とは、金品の貸借そのものに対する安易さをいうのだ。だから、例えば、昼食代を忘れたら、一日黙って空腹をかみしめるほどの自己抑制があってもいいのではないかと、あの御仁と同じことを思う。そういうことの思いも寄らない人間は、誰彼となく金を借りまわり、拒否されれば逆恨みするに違いない。自分で責任のとれない人間は、責任を他に押しつけることしか思い浮かばないのだ。些細なことを大袈裟に考え過ぎだという者に対しては、次のように答えよう。その人間がどのような人物であるかは、まさしく日常的で些細な行為の積み重ねによって決定されるのである、と。 ◇「借り手にもなるな! 貸し手にもなるな! 借金は切っ先を鈍くし、貸し金はややもすればその元金を失い、またその友をも失う」シェイクスピア ぼくは他人にものを貸すのが大嫌いな人間である。そのくせ、貸してくれと言われると断われない性質である。そこで、何か貸してくれと言って来る同僚がいたら、こいつとは親友にはなれないなと思うことにしている。そして貸す時には、これは返却してもらえないこともあると心に言い聞かせてから貸すことにしている。返してくれなければ、それは、相手がどんな人間かを知るための授業料として、相手にくれてやったものと思うことにしている。そうすれば、いささかなりとも気もおさまる。 自分がそうであるなら、自分が相手から何か借りる場合には、自分が相手からそのような眼でみられているということだ。それを思えば、安易な貸借に対しては抑制的とならざるを得ないはずである。誰の世話にもなるまいとするほどの者なら、誰に対してであれ、いかなる貸し借りも作るべきではない。そういうことを曖昧なまま許容しておく精神こそ退廃の第一歩である。 |