借り手にもなるな、貸し手にもなるな
S君を糾問する ◇2学期になってから、君の欠席・欠課・遅刻の回数が急に増えている。その中には、もちろん、やむを得ない事由によるものも含まれていようが、単なる怠惰によるもの、あるいは、もっと意図的ないわゆるサボリも何回か含まれているように思う。そして、この時期になって学校に行くことが何か時間の無駄であるような思いは、何も君ひとりのものではなく、程度の差こそあれ、クラスの多くの者たちの心に巣くっているはずである。保護者の中にさえ、そう公言してはばからぬ者が居るぐらいだ。 これに対して、どのように応えるべきかにぼくは迷う。そのような者は、自分の考えと行動の意味を何ほどか測り得ているのであろうか。そのようなことを真面目になって考えているということ自体が、ぼくには信じられない思いだ。はっきり言って、そのような考え方も行動も、ぼくの最も嫌悪し軽蔑するところのものである。しかし、単なる考え方の違いということでお互いに相手を無視し合うほどには、幸か不幸か、我々は無関係では在り得ないのだ。それゆえ、ここに公開で君(たち)を糾問する次第である。 (問題をはっきりさせるため、遅刻常習者のごとき本来的に怠惰な者のことは除外したい。そのような者は、「だらしない人間は、どこまでいってもだらしない」という言葉をかみしめよ。あるいは、「人間の徳は、その異常な努力によってではなく、その日常的な行為によって測定されるべきものである」というパスカルの言葉をも。) ◇君が学校をサボルという場合、そこには必ず価値判断が働いているはずである。「価値とは何ものかにとっての価値であり、判断とは何らかの規準による判断である」。今の君にとっては、もちろん、受験がすべてであろう。そして、そのことが間違っているわけでは決してない。ただ、受験は君個人にとっての価値にすぎないことが、君にはわかっているのかどうか。 大学に進学してくれと、誰も君にお願いしたわけじゃない。大学に進学させることが高等学校の存在の目的でもない。大学に進むか否かは、君自身の個人的問題にすぎない。それが忘れられているのではないか。そして世間の風潮に踊らされて、自分は周囲の者たちの期待を一身に集めた受験戦士でもあるかのような気になり、自分にとっては受験勉強が尓余の一切に優先する大義名分になるとでも思っているのではないか。そこに見られるものは、単なる手段であったはずのものが目的に転化した姿である。この転化を招来したものは、まさしく主体性の喪失にほかならない。 確かに君の受験勉強ぶりは一頭地を抜いている。その意味では、いかにも主体的に見える。しかし、その主体性とは、自己目的化した受験勉強に奉仕するだけの、奴隷の主体性にすぎないのだ。これが君に対する批判の第一点である。 ◇何と言われようと、自分はそれで結構だ――と、あるいは君は居直るかもしれない。「今どんなに非難を浴びようとも、自分の第一志望校であるK大学にさえ合格すれば、すべては浄化される。その時は誰も何も言えまい。それに今だって、誰かに迷惑をかけているわけじゃなし。欠席・欠課・遅刻にしろ、学校の定めた規定数ぐらいはちゃんと心得ている」と。 規則に抵触さえしなければ、それで誰の迷惑にもなっていないと思う――君の欠席や遅刻が君の所属する集団にとってどれほど目障りで、どれほど集団の雰囲気を害しているかということに気づかない――浅薄さには眼をつぶるにしても、それでもなお、自分の所属する集団を対象化する時に個として持つべき内実を欠いた者の醜悪さを、心ならずも露呈していることに気づかないか。 集団というものは、単に規則を遵守していれば満足するものではない。構成員に対し、規則を内面化し主体化することを要求するのだ。その要求を拒否する者(すなわち、集団を対象化する者、学校なんてつまらんけれども卒業証書が欲しいから規則は守るというほどの者)は、集団と絶対に馴れ合わない覚悟がなくてはならない。それが、集団と対決する個の内実というものだ。 しかるに、例えば、君が遅刻の規定数を超えた時のことを想像してみるがいい。遅刻の19回が医師も認めるようなやむを得ぬ事情であったとしても、あとの1回が怠惰によるものであれば、君は怠惰によって規定数を超えたことになるのだ。なるほど、頭のよい君は計算しながらサボッているのだろう。しかし、世界は君の計算で動いているわけではない! 欠席・欠課・遅刻の数を規定するなんて、およそナンセンスだと思っていればいるほど、この規定に抵触した時に君がとるであろう態度を想像すると、それだけでもう胸くそが悪くなる。 それは、要するに、駄々っ子のように周囲に甘えもたれかかっているだけのことなのだ。自分が敵対するものと馴れ合う醜悪――これが君に対する批判の第二点である。 ◇批判の第三点は見苦しいということである。世の中には本当に頭のいい者がいるものだ。彼は君ほどの努力を払うまでもなく優秀な成績を収めることが出来るであろう。それゆえ、君が切り捨てて来ざるを得なかったものを、彼はやりこなして来たに違いない。そのような者の眼で自分をみた時、受験のことだけに眼がくらみ、うろたえ、じたばたしている自分を恥じるくらいの自尊心は持ってもらいたいものだ。 もちろん、君はK大学に合格するだろう。その時、人はみな祝福しこそすれ、非難がましいことを誰も何も言うまい。しかしそれは、結果が君の在りようを浄化したということを意味するのではない。おとなの世界では、言っても無駄な相手には言わないのだということを知っておいて損はない。 |