title.gifBarbaroi!
back.gifS君を糾問する
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学級通信 批判




◇3年間続けてきた「野次馬通信」であるが、 その意図ないしは意味について議論されたことは一度もなかったように思う。ところが、今回、「野次馬通信」に対して初めて批評らしい批評が寄せられたので、ここに掲載しておきたい。
 なお、寄稿者M君の言わんとするところを尊重する意味で、可能なかぎり原文のとおりに掲げることにする。

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 ”学級通信と書かれていたので、僕は組全員の意思がもり込まれるんだろうと、てっきり思い込んでいました。そうではなかったので、野次馬通信の意図とは、我々の物の考え方の根底をなそうとした。あるいは示唆を与えようとした所にある。と僕は解しましたし、皆もそうです。そこで前号は、そのことを最もよく現している号の一つです。先生の心情が*ぴしぴし*と伝わるすごい、わかりやすい、ええ文章や思いました。”!”。だとすれば、もともと野次馬通信の意図は組内の物の考え方の根底をなそうとするものだと解されていましたので、S君に対して有無を言わさぬ言動が、組内に、大変高圧的にのしかかっても不思議は、無かろうと考えられます。無論、細い事情を我々は知るよしもないのですが。

 こう言った性質が、野次馬通信にあることを、僕は二年間読んできてつくづく思いました。皆も良かれ悪しかれ、そう思っていたのです。ですから当然、中から多数野次馬通信の内容を無条件に受容し、その基準に達っしようとする者が表れました。しかしながら、僕には友人達のその行為の中に”従属の論理”あるいは、”下僕の論理”という少々卑屈な態度が、見えてきたのです。(僕はそのような態度を決っして悪いものだなどとは考えません。)二年間の間に、自尊心を傷つけられた者や、自信を失いそうになっている者達が幾人か出てきました。それを内心、横目で見るのと同時に、憐み同情しているのが彼らの本当のところである、と見うけられました。これがみんなの情況であったと思います。それならば、三年間実際には何もせず、これといったものも理解し得なかった、年中学力の低空飛行に終始している、ハナッからよそ者の僕のようなヤツでさえも、”先生の言うこと”という大谷高校*生徒にとって特有*のひとつの基準に対して、自分の意見をぶつけることができるということを、皆が、知ったら、と思い、自分から進んで論争に加わった次第です。(このように自分の行動について、説明するのは、本当は、生まれてからにしても珍しいことですねん。僕にとって。)

 前号によると、僕たちのような”遅刻常習者の如き本来的に怠惰な者”たちは、二つの言葉をかみしめねばならぬことになっています。そうして、僕は真剣に噛み締めたんです。でも、噛めば噛むほどに段々と僕にはわからなくなってくるのです。”だらしない”とはどういうことなのか、誰か絶対的な判断者がいるのかがわかりません。とすると、”どこまでいっても”が「死ぬまで」という意味だとすると、その”だらしない”人間の行為は、パスカルの言う”日常的な行為”に当るはずです。し、”だらしない”行為を判断する視点が限定されていない以上、例えば人が、「遅刻してもしなくても同じだ。」と思えば、その人の行為は、”測定”する、あるいは、”測定”されることによって生じる順位の低い部分に位置されることは少くともないことになります。自分たちの”徳”が、低く位置されること、あるいは位置することを避けるために、我々遅刻常習者には、二つの道が与えられたことになります。一つは、「遅刻をしないこと」。もう一つは、「遅刻を何とも思わぬこと」。です。勿論、このことは遅刻の問題にのみとどまるものでは、ないと考えます。

 いずれにせよ、野次馬通信の”*毒*”は、我々には無くてはならぬものであると、思います。僕は、野次馬通信は素張らしいと思います。

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◇M君が言っていると考えられることをぼくなりに整理してみると――
 △「野次馬通信」は、教師=担任が生徒に向かって、生徒として守るべき規範を示そうとした文書である。
 △それ故、「野次馬通信」に展開されている内容も、そこに見うけられる教師すなわち担任の姿勢も、生徒にとってはきわめて「高圧的」であった。
 △それ故にまた、生徒の側にも、示された規範に服従しようとする「従属の論理」「下僕の論理」及び態度が見うけられるようになった。そして、これを拒否する者は、いわば落ちこぼれとして疎外されるような情況が生み出された。
 △そこで、初めから「よそ者」である自分=M君は、教師=担任=富田の示す規範なるものが何ら絶対的なものではなく、したがって守りたい者は勝手に守ればよいが、しかし守らなくても、自分さえ気にしなければ何の効力も気に病む必要もまったくないものである、ということを示そうとする。
 △かくして、自分=M君は、富田体勢の落ちこぼれたちにとって”救世主たらん!”と思う――

と、まァ、そういうふうなことをM君は言っているのだと解しておく。

 さて、M君が「論争」を望んでいる以上、彼の発想の根源にまで降りてゆき、その観念的前提をえぐりだし、それに対して理路整然たる反論を加えてゆくべきであるが、それほどの余裕は今はない。そこで、思いつくままにしるしておきたい。ぼくの言わんとするところをくみとってくれるとありがたい。M君も述べているとおり、問題はただ単に遅刻の問題にのみとどまるものではないのだから。

I)「野次馬通信」を心して読んでもらいたい。いったいどの号に、「教師」が「生徒」に向かって何か訓示を垂れ給うというような内容があったか。少なくともぼくは、「教師」-「生徒」という既定の関係の上に盲目的に乗っかって「野次馬通信」を書いたことは一度もないつもりだ。

 我々の集団は一種の運命共同体である。言うところの意味は、好むと好まざるとにかかわらずかかわりを持たざるを得ないということだ。かかわりのない人間に向かって言うべきことをぼくは何も持たない。しかし、自分とかかわりのある者に対しては、我々はまことをつくすべきである。すなわち、それぞれに己の立場を明確にし、もしも思想的に相容れない場合には徹底的に対決し、一点の曖昧なところも残さぬように努める――それが仲間に対する信義というものではないか。

 「野次馬通信」においては、ぼくは「教師」としての立場よりももっと深いところからものを言ってきたつもりだ。

II)「野次馬通信」の意図は何か? 君たちの言動の背後にある思想ないし無思想に対して、ぼくなりの(一個人としての)思想を以て対決するということ。この姿勢は一貫して崩さなかったつもりである。自分の生きざまを根拠づけている思想を以ての対決であるから、当然、「この一線は譲れぬ」という意思は強く持っている。それが「高圧的」だったとすれば、それに対抗し得るだけのものを君たちがまだ持っていなかったということの証左であろう。内実をともなわない理屈なら叩きつぶすまでのことだ。また、わずかな毒気(真実にはしばしば毒があるものだ)で傷つくような自尊心や自信など初めから持たないことだ。そんなものは虚妄だと言っておく。

 どれほど善いことであっても〔何が誰にとって何故に善いのかということはこの際問題にせず〕、それを無条件に絶対的なものとして没主体的受容することの非は、M君も言うとおりである。「野次馬通信」においてぼくの真に欲していることは、対決を通して君たちが己の主体性を鍛えあげてくれることだ。

III)「だらしない」というのは価値判断である。したがって、当然、そこには判断するための価値規準が前提されている。この規準を認めなければ、「だらしない」という判断も成り立ちようがない。「行為を判断する視点が限定されていない」というのは、おそらく、価値規準が絶対的なものではないことを指摘したのであろうが、しかし、それは議論をいたずらに混乱させるだけの「言葉のお遊び」に堕すおそれがある。〔価値規準が絶対的なものか否かについては、議論好きな人と議論してもらうことにして〕もしも「論争」をみのりあるものにしようとするのであれば、例えば、「だらしない」とぼくが言った時に既に前提されている規準をM君はえぐり出し、これに批判を加えるべきであったのだ。

IV)いくら「遅刻を何とも思わぬ」にしても、それで遅刻という事実が消えてなくなるわけではない。遅刻常習者に与えられた道は実は四つである。「遅刻しないことを決意し実行すること」「自分では実行できないで強制されること」「遅刻は刻限を定めることから生じるのであるから、時刻を定めるような社会と戦う」「遅刻のあるような世の中におさばらする」。

 ぼくの言う「だらしない」人間とは、もちろん、第二番目の道をたどる者のことである。”だらしなさ”とは主体性の欠如である。もっと言えば、それは甘えであり、ナレアイである。他を許し、それ以上に自分を許し、また許されるのが当然のごとくつけあがり、それが許されぬと見るや卑屈に追従し、敵対すべきものともなれあってゆく心性である。

V)「だらしのない者はどこまでいってもだらしがない」。”どこまでいっても”というのは、”どんな状況になっても”という意味だ。

 人間には決断すべき”時”というものがある。だらしのない人間は、その時になっても、そういう時に直面しているということを見抜くこともできずに、敵対すべきものともナレアイながら焼却炉の中までも運ばれてゆくのだ!

 「イザという時には俺だって」と人は思いもし言いもしている。だが、”イザという時”など実はどこにもありはしないのだ。あるとすれば、今-眼の前にあるのだということを、ぼくは痛恨のおもいをこめて断言しておく。

 強制収容所の焼却炉の前で、今まさに生きながら焼き殺されようとするひとりのユダヤ人が、ぼうぜんとつぶやいたという言葉――「どうして自分はベッドの中で死ななかったのか」という言葉ほど悲痛なものをぼくは知らない。寝込みを襲って彼の寝室にゲシュタポが踏み込んで来た時、彼はこれに抵抗して殺されるか自殺するか出来たはずではないか。いったい彼にとって”イザという時”とはいつのことだったのだろうか。

VI)日々を危機として生きること。そういう精神の厳しさは、君たちのような青年にこそふさわしい。危機感のない青春なんぞにぼくは何の魅力も感じないのである。
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