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back.gif野次馬通信 批判
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仲間を売る者




◇ことばが軽い。軽すぎる。ことばの軽い者は、おこないもまた軽い。
 君たちの口を衝いて出ることば――あれはいったい何なのか? そこにいったいどれほどの主体が(己の存在が)かかっているのか? まるで中身からっぽのカナダライをひっくり返したように、むやみやたらに騒々しいばかりで、後には何も残らない。いや、ひとの心を引き裂いたその傷跡だけを残して消滅してゆく――まったく胸クソが悪くなる。

◇先日、食堂でIV年生とVI年生とのトラブルがあったという。VI年生がかなり興奮してIV年生の胸ぐらをつかんだ。そのため学生服のボタンが三、四箇ちぎれた。そこにS先生が割って入った。するとIV年生が、「自分の方が悪かったので、後でVI年生に謝っておきます」と言ったそうだ。〔なかなか感心なIV年生ではないか〕。だからS先生もそれ以上は追及せず、ただその事実だけを担任団に報告するにとどめた。しかし、担任団としては、トラブルを起こした当事者に注意を促すことが当然の仕事であろう。そこでSHRで話した。そのときの君たちの反応が気に入らぬ。

 事件の当事者が我がクラスに居たのか居なかったのか、ぼくは知らない。もし居たのなら、自分で名乗りを上げるべきであったろう。それが自分の行為に責任を持つということである。しかるに君たちは他人の名前を挙げるようなまねをした。しかも、その名前はおそらくは今回の件には何の関係もなかった者の名前であったろう。ますますもって気に入らぬ。

 いったい、君たちにとって仲間とは何なのか? 本人の名誉にかかわることが、ほんの軽い冗談として言えるような仲間とは何なのか? 仲間の不名誉を言いふらすことは、その仲間を裏切り売り渡すようなものだ。仲間を売り渡さないこと――これは人間にとって最低のMoralityのひとつであろう。そんなMoralityもないほどまでに、君たちの仲間意識は崩壊してしまっているのか? あるいは、それほどの不名誉が冗談で言えるほどまでに、君たちはMoralityを欠いてしまっているのかと言いたい。

 そんな者たちであれば、たとえば入学試験や就職試験で、面接官から本籍を尋ねられ親の職業を尋ねられた時に、おそらくは唯々諾々と返答して、そうやって自分が仲間の何人かを裏切り売り渡していることに何らの痛みも感じないばかりか、自分の裏切りにさえ気づきもしないであろう。誰が仲間なのかを見分けられぬ者に、どうして敵を見定めることができようか。敵を見定められぬ者に、どうして敵とより善く戦うことができようか。敵を見定められぬ者は、仲間をも見失うものだ。

◇昭和2年(1927)7月24日未明、睡眠薬の致死量を飲んで芥川龍之介は自殺した。35歳であった。「我が子等に」と題する一文を書き遺していた。
 「人生は死に至る戦ひなることを忘るべからず。……若しこの
  人生の戦ひに破れし時には汝等の父の如く自殺せよ」と。

 ぼくは以前、芥川龍之介のこの考えを批判したことがあるが、しかし、人生が死に至る戦いであるという考えに異論はない。人間は生きているかぎりにおいて、誰しも戦っているのだと言いたい。問題はその戦いの質である。深さである。戦いと言い、敵と言い、君たちにはあまりに縁遠く、すんなりと聞けないかもしれない。しかし、自己に対して厳しい者ほど、日々が戦いであり、日々敵と対面しているものなのだということを、もうひとつ付け加えて言っておきたい。
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