仲間を売る者
裏切りとは ◇君たちが高校に入学して以来、毎学期1回ずつ同和一括指導と同和LHRを重ねてきた。それも今学期で8回目になる。そして同和LHRは今回が最後になるはずだ。 思えば3年という歳月は短くはない。その間、君たちの学び得たものは何であったろうか。「同和」という言葉を聞くたびに「またか!」と思い、そう言いもしてきた者が多いに違いない。何故であろうか? おそらくは「わかりきったことを」という思いからであろう。(「自分はわかっているつもりだから、早く帰りたい」と、正直に(?)日誌に書いた者がいた)。 だが、いったい何がわかっているというのか。被差別部落の歴史が、あるいは、在日朝鮮人渡来の歴史が、わかったというのか。差別はいけないことだということがわかったというのか。しかるに現実には差別がまかりとおっているということがわかったというのか。タテマエとホンネの使い分けがわかったというのか。そして、わからないことは唯ひとつ、なんでこんなに差別・差別とうるさいのかということだ、とでもいうのか? 差別の問題とは、差別される側の問題ではなく、差別する側(すなわち、我々自身)の問題である、と繰り返し力説されてきたはずである。しかし、それでも君たちは大きく心を動かされることもなかった。差別とは「裏切り」であるとも言ってきた。しかし、だからといって君たちの眼が真剣味を増したようにも思えない。要するに他人事なのだ。人間解放=自己解放の思想を学び、それを実践するのだと言っても、それは自分とは関係のないあわれな人間のことを言っているのだ、とでも思っていたのではないか。自己の存在の基盤をも揺るがしてくるようなその論理を、論理としてさえ理解することができなかったのではないか。 もしもその通りであるとするなら、そして、たとえば入学試験の面接の場などにおいて、今までに学んだはずのことが何ひとつ脳裏をかすめさえしなかったとするなら、3年という歳月も空無であったと言わなければなるまい。 ◇先週の同和一括指導における飯沼二郎氏の講演内容について、ぼくはぼくなりに批判すべき点をもっている。しかし、そういったことを議論する前に、ぼくは君たちの聴く態度に憤りを覚える。眠る者、私語する者、進研スコープや単語帳を見る者……そういう態度が、話の内容に対する無言の批判を意味することはある。しかし、一人前の男が、そんな無礼な、そんな侮辱的な態度しかとれないということは、人間として恥ずべきことだといってよい。 まして、話の内容を思いみよ。君たちがぼくの授業中にふてぶてしく寝ているのとは、わけが違う。君(たち)のすぐ横で傷つき苦しんでいる仲間のいることが告げられているにもかかわらず、それに気づこうともしない君(たち)の様子を見ていると、ぼくはいつも「裏切り」ということを思う。 ◇それは、あのイエスが逮捕された夜の物語、ペテロの裏切りの物語です。 それから人々はイエスを捕らえ、ひっぱって大祭司の邸宅へつれて行った。ペテロは遠くからついて行った。人々は中庭のまん中に火をたいて、一緒にすわっていたので、ペテロのその中にすわった。すると、ある女中が、彼が火のそばにすわっているのを見、彼を見つめて、「この人もイエスと一緒にいました」と言った。ペテロはそれを打ち消して、「わたしはその人を知らない」と言った。しばらくして、ほかの人がペテロを見て言った、「あなたもあの仲間のひとりだ」。するとペテロは言った、「いや、それはちがう」。約1時間たってから、またほかの者が言い張った、「たしかにこの人もイエスと一緒だった。この人もガリラヤ人なのだから」。ペテロは言った、「あなたの言っていることは、わたしにはわからない」。すると、彼がまだ言い終わらぬうちに、たちまち、鶏が鳴いた。主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。そして外へ出て、激しく泣いた。 (ルカ伝) この物語を読んだ一人の部落民は次のような詩をよみました。 かつて 丸岡忠雄 ペテロは三度 イエスを否んだ わたしは 幾度 ふるさとを否んだ か 故しらぬかげにおびえ ”ふるさと”の重みに、 息をのみ 異郷に ひとり居て ふるさとびととの邂逅を わたしは 蟹のように怖れた この詩人が、この物語から何を感じとったのか、必ずしも明確ではありません。三度どころか、幾度も否んだ怖れを詩っていることは確かですが、「イエスを否む」がイエスへの裏切りであったように、「ふるさとを否む」が、ふるさとへの裏切りであると感じているのかどうか、明らかではありません。差別の問題を人間の問題として考えた時、被差別の側にも、差別の側にも、「裏切り」の問題があることは、これまで見てきたところです。そして、裏切りは、最も抑圧された者の立場に自分の身を置くことができずにそれを見捨て裏切るという、差別の力に対抗できない人格の弱さに由来しています。この詩人が、「かつて」の「ふるさとを否む」自分から、どのようにして新しく生まれ変わったか、知るべくもありませんが、イエスを否んだペテロは、振りむいてペテロを見つめられたイエスの目によって強い人間へと変ぜられたことは疑うことができません。 (小笠原亮一『共に在ること』) 裏切らないということの重みを、もういちどかみしめてもらいたい。 |