title.gifBarbaroi!
back.gif裏切りとは
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マッチ売りの少女




◇どんな人間でも、人それぞれに何らかの尊敬すべきところを持っている。しかし、ほんとうに尊敬できる人間となると、なかなかお目にかかれないものである。

 本校には、100人に近い教職員がいる。そのすべての人間とつきあいがあるわけではないので、断定的なことは言えないが、今までにぼくが「ああ、この人はほんとうに尊敬できるなぁ」と思えた人間は、わずかに3人にすぎない。
 そのうち、一人は数年前に学校を辞め、今は北白川教会の牧師をしておられる。もう一人は、だんだん「おエライさん」(ここで「お偉いさん」と書かなかった理由が、君たちにはもう読解できるネ)になるにしたがって、あまり偉いとは思えなくなってしまった。

 そして最後の一人は、今も高校の普通科で数学の教師をしている佐伯勲*さん*(先生とは言わん。先生という言葉には、だいたい相手を馬鹿にした響きがあるから)である。
 彼はぼくよりずっと若い。経験も知識も、ぼくよりずっと少ないかもしれない。にもかかわらず、ぼくは彼を偉いと思い、彼には頭が上がらないと思っている。
 ところが、その偉さがわかる人間が、生徒はもちろんのこと、教師の間にさえほとんどいない。人間の本当の偉さがわからんような愚物が多すぎる、とぼくは本校に失望している。

 いったい、彼のどこがそんなに偉いのか。――彼の生きざますべてが、である。そうでなくては、ほんとうに尊敬する価値はない。では、彼はどんな生きざまをしているのか。それをとりまとめて君たちに話して聞かせる用意が、今のぼくにはない。
 ところで、今、ぼくの手もとに、『樹心集』19という本がある。これは、講堂礼拝の話を1年間分とりまとめた本で、毎年発行されている。今年の分は間もなく君たちの手もとに届くはずである。佐伯勲さんは、講堂礼拝の時に毎年いい話をしてくれている。特に昨年の彼の話は印象深かった。君たちにも紹介しておこう。彼の人柄、ものごとの考え方、まなざしの深さの一端がわかってもらえると思う。そして、どういう人間が真に尊敬にあたいするかということも――


マッチ売りの少女

 去年の暮れに、クリスマス会を6回持ちました。教会のクリスマス、教会の日曜学校でのクリスマス、友人たちとのクリスマス、うちの子の通っている保育園でのクリスマス、近所の子どもたちを呼んでのクリスマス。それぞれに意味のある、楽しいひとときが持てました。今日は、近所の子どもたちを呼んでのクリスマス会をしたんですけれども、そこに来た子どもたちのことを中心にお話をしたいと思います。

 来た子どもたちは、小さい子どもたちが4人、小学校二、三、四年生がそれぞれ1人ずつ、中学一年1人、中学二年2人の約10人ほどです。この10人の中に、12人兄弟のうちの7人(全部女の子)が入っています。まず、この女の子のことについて話します。

 この子たちは、ぼくの住んでいる団地の近所の子どもたちで、12人兄弟なんだそうです。それもだいたいが年子なんです。
 この子たちと初めて出会ったのは、ぼくが結婚して団地に引っ越ししてきてから、二、三ヶ月したころでした。団地の中に公園があるのですが、いつも暇そうに、日曜日も朝早くから夕方まで遊んでいるのです。そのうち、ぼくの家に来るようになりました。何しに来るかというと、公園で遊び疲れて喉が渇くと、「おッちゃん、水くれぇー」。おしっこがしたくなると、「おッちゃん、便所貸してくれぇー」。それも1人ではなくて、10人ほどがゾロゾロとです。
 はじめは、かわゅい子どもやなぁと思ってたので、水がジュースになったり、お菓子も出たりしました。そんなようなことで、それを目当てに来はじめたようです。

 それで、だんだんぼくの顔もゆがんできて、「はやく帰れ」といわんばかりの顔になりだしました。下の子どもは、いつも鼻から二本の汽車が出ているし、カーペットの上でおしっこをもらしたり、時にはウンコもたれるし、さんざんでした。しまいには、ぼくはイヤァーな、怒りっぽい顔をしたり、どなったり、時には居留守もつかいました。そして、彼女たちはそのうちだんだん来なくなりました。
 と思っていたら、ぼくが居ない時を見計らって来ている始末です。本当にいやな子どもらやなぁと思うようになりました。

 ところが、梅雨時の、雨のシトシト降る日のことでした。いまだにその時の光景が目に焼きついています。
 朝、ぼくが学校に行こうと、家を出ると、ぼくの団地の横に保育園があるのですが、二番目の女の子(その時は小学校五年生)が、一歳ぐらいの赤ん坊をおぶって、三歳ぐらいの女の子の手をつないで、その保育園の前で、ジーッと突っ立っているんです。「何やってんの」と聞くと、「保育園が開くのを待ってんのや」と言うんです。お母さんが病気かなんかでその日だけのことかなぁと思っていたら、その後何度もそのような光景に出会いました。

 後からわかったことですが、上の女の子(小学校六年)と交代で、小学校を休んで、下の小さい子たちの子守をしているんです。10年、20年前ならいざ知らず、つい最近のこと、いや、今も、今日もそうなのです。
 今、上の女の子は中学二年、下の女の子は中学一年生です。中学校へは、交代で一日おきに行っています。勉強なんかわかるはずがない。高校進学なんか考えたこともない、夢のまた夢のことでしょう。たまに学校へ行っても、まわりの女の子たちがいじめるそうです。「なんやアンタ、いい年して、ちっちゃい子をゾロゾロひきつれて、格好わるいやないか」と言うそうです。休み時間は、教室に一人、無表情に窓の外をながめているんだそうです。学校へ行っても、早退する日が多いみたいです。

 お父さんもお母さんも居るんですが、どうしてこうなのか、ぼくにもわかりません。ただ言えることは、彼女らには何の責任もないということです。何の責任もないんだけれども、現実は、早く義務教育を終えて、社会に出て、働いて、家にお金を稼いで来なくちゃいけないのです。その子にとって、学校は針のむしろみたいなもんです。本人の教育を受ける権利なんて、ふっとんでます。そのことを知った時、本当に頭の下がる思いでした。

 もう一人の中学二年の女の子とは、最近、去年の秋も終わり頃、知り合いました。というより、その子のお母さんから相談を受けたのです。家庭がとても複雑で、今のお父さんは、二人目のお父さんです。去年の秋頃、前のお父さんが、彼女を連れて東京方面へ自殺旅行に行ったんだそうです。お母さんは心配し、警察にも連絡されたそうです。2週間ほどして、無事にもどってきたようです。その間というもの、彼女はつねに、死と隣り合わせだったんです。心の傷も相当なものだったと思います。

 その後、中学校で先輩からインネンをつけられ、暴力をふるわれて少しケガをしました。そのことが直接の原因で、それ以来、彼女は学校に行かなくなり、家に閉じこもり、そのうち妹や弟に、そしてお母さんにも辛くあたるようになりました。つまり、彼女は、中学生という精神的に一番不安定な時期に、家のこと、お父さんのこと、学校でのこと、さまざまな経験をし、精神がズタズタに引き裂かれてしまったと思うのです。彼女についても、彼女には何の責任もないと思うのです。彼女は、今、必死になって、負けよう負けようとする自分の心と戦っています。

 そういう子たちといっしょに、去年の12月25日、クリスマス会をしました。いっしょに歌ったり、ゲームをしたり、プレゼントの交換をしたり、とても楽しい時をすごしました。とっても大きなチョコレートのケーキを食べました。

 その日の夜、『ひとむれ』という本の中に書いてある「マッチ売りの少女」についてのお話のところを思い出しました。「マッチ売りの少女」は、デンマークの童話作家アンデルセンが書いた童話です。アンデルセンという人は、「皇帝の新しい着物」、「人魚姫」、「みにくいアヒルの子」を書いた人です。ぼくはアンデルセンの話がとっても好きです。

 「マッチ売りの少女」は、おおみそかの晩、小さな貧しい少女が、窓の外から、暖かい部屋の中をのぞきこんでいるというのです。降り積もる雪にこごえきって、売れ残ったマッチを一本一本すって、わずかに暖をとりながら、とうとう窓の外で凍死してしまうという、悲しいお話です。

 先ほど、彼女らのことについてお話しましたが、ぼくは、あの子たち、かわいそうやなぁと思います。本当にかわいそうやなぁと思います。なにか、不幸をきそっているような感じさえします。でも、あの子どもたちと、彼女たちといっしょにクリスマス会をしていたとき、その私たちのクリスマス会の楽しそうな光景を、窓の外から、うらやましげに、冷たいガラスに顔を寄せて、見ている子どもたちが、まだまだたくさん居ることも忘れてはならないことだと、その『ひとむれ』という本から知らされました。

 そういう子どもたちとくらべて、だから君たちは幸せだとか、恵まれているとか言いたいのではありません。「マッチ売りの少女」は今でもたくさん居るということ、ぼくたちにはそれが見えていないということです。

 本屋に行って、アンデルセンの「マッチ売りの少女」の本を買い求めて読んでみました。小さい頃に読んだときの印象では、マッチ売りの少女はかわいそうやなぁと思っていました。今度は、それとは全然ちがった、何か鋭いものをつきつけられたような思いでした。
 よく読んでみると、マッチ売りの少女は、口もとにほほえみさえ浮かべて死んでいた、と書かれてありました。もうとっくに亡くなっていた、そして、世の中でたったひとり、その少女をかわいがってくれたおばあさんに抱きかかえられて、天国の昇っていった、と書いているんです。

 たったひとり、しかも、とっくに死んだおばあさんだけが、彼女を一番愛してくれていたんです。彼女のまわりに、彼女のかたわらに、お父さん、お母さん、何人もの身内の人、友だちが、近所の人がいたと思うのですが、誰ひとりとして、彼女のことを考えなかったんです。みんな、つめたかったんです。
 先ほど、何か鋭いものを、と言いましたけれども、それは、「おまえはどうなんだ」という問いかけを、突きつけられているように感じたからです。
                         (1985.01.22.)
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