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奥崎謙三に判決 ☆ 以前、君たちには講堂礼拝の時に紹介したことのある奥崎謙三に対する公判判決が出たと言って、高3の某君が新聞記事を持参してくれた。記事の内容は以下の通りである。 ▽▽▽▽▽京都新聞 1月28日付 夕刊▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽ [大見出し]「天皇を撃て!」の著者 奥崎被告に懲役12年 [小見出し]旧陸軍上官の長男狙撃 []広島地裁判決 [本文] 58年12月広島県大竹市内で、旧陸軍時代の上官の長男を短銃で撃ち、殺人未遂などの罪に問われた神戸市兵庫区荒田町2の2の16、自動車バッテリー販売業奥崎謙三被告(66)の判決公判が28日広島地裁で開かれた。 荒木恒平裁判長は「犯行は計画的で悪質。本人は今後、暴力を使わずに思想の普及を図るとしているが、再犯の恐れも否定し難い」と懲役12年(求刑同15年)の実刑を言い渡した。 判決によると、奥崎被告は第2次大戦中、陸軍独立工兵第三十六連隊に属し、ニューギニア各地を転戦した。終戦の20年9月、連隊の兵士二人が脱走したとして戦地で銃殺されたことで「軍法会議にも掛けず処刑したのは違法」と、当時中隊長(大尉)の広島県大竹市油見1の12の9、無職村本政雄さん(71)を制裁しようと計画。58年12月15日、村本さん宅を訪れたが、村本さんは不在で、応対した長男の競艇場警備員和憲さん(39)の左胸を改造銃で撃ち、3ヶ月のけがをさせた。 奥崎被告は当時、衆院選に兵庫1区から立候補していた。12月18日の投票では、定数5に対し902票と、7人の候補者中最下位だった。 公判で奥崎被告は起訴事実を認めた上で「処刑された二人の霊を慰めるには村本さんを殺害することだ。これは神と戦争犠牲者に対する私の義務である」と主張。 検察側は「現在の社会構造を否定する独特の世界観に基づく犯行で、矯正は困難。社会防衛上長期間隔離するのが望ましい」と懲役15年を求刑していた。奥崎被告は44年1月2日、一般参賀でにぎわう皇居で天皇陛下目がけてパチンコ玉4個を撃ち、懲役1年6月の刑に服している。ニューギニア戦で敗走する日本軍の悲惨さを自らの体験を基に書いた「ヤマザキ、天皇を撃て!」などの著書で一貫して天皇の戦争責任を追及していた。 △△△△△△△△△△△△△△△ ☆ 上記のような『京都新聞』の扱いに反して、他の新聞の扱いは極めて冷淡である。ひとりの男が、42年以上の長きにわたって、あまりに大きすぎる敵と闘い続け、ついに社会の敵として「長期間隔離」されるに至ったという記事よりも、マラソン・ランナーの瀬古選手が暴漢に襲われてちょっとケガをしたというニュースの方がはるかに大事件であるらしい。例えば、 ▽▽▽▽▽毎日新聞▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽ [見出し]立候補中に殺人未遂/奥崎に懲役12年/広島地裁判決 [本文] 58年の総選挙で兵庫1区から立候補中、旧陸軍での恨みから元上官の長男を改造けん銃で撃ち、重傷を負わせたとして殺人未遂、銃刀法違反罪に問われた神戸市兵庫区荒田町2、自動車部品販売業、奥崎謙三被告(66)に対する判決公判が28日午前、広島地裁刑事二部であり、荒木恒平裁判長は懲役12年(求刑同15年)を言い渡した。 △△△△△△△△△△△△△△△ これでは、個人的な「恨み」以外に、生命を賭けた奥崎謙三の思想と行動は何も伝わってこない。彼を単なる犯罪者の中に押しこめようとする悪意があるとしか思えない。また、 ▽▽▽▽▽読売新聞▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽ [見出し]上官の息子に発砲/懲役12年 [本文] 戦時中の脱走兵処分問題をめぐり、さる58年末、当時の上官の息子を改造ピストルで撃ち、殺人未遂などの罪に問われた神戸市兵庫区荒田町2、バッテリ販売業奥崎謙三被告(66)に対する判決公判が28日、広島地裁で開かれ、荒木恒平裁判長は、懲役12年(求刑同15年)を言い渡した。 荒木裁判長は「社旗構造を否定する独自の主義・主張に基づいて、周到に用意した上での犯行で、直接関係のない人間を撃っており悪質だ。悲惨な戦争体験が被告にこのような犯罪を起こさせたと思われるが、それでも、許しがたい。再犯のおそれもある」と判決の理由を述べた。 △△△△△△△△△△△△△△△ 奥崎謙三の戦争体験の悲惨さに同情を示すような素振りを見せながら、「それでも、許しがたい」と言う。いったい、何が許しがたいのか。奥崎謙三は、42年も前に犬死にしていった戦友たちの無念さを自分の無念さとして生きてきた。それが許しがたいというのか? 『毎日新聞』と『読売新聞』の二つの記事に注意してもらいたい。そこには、天皇の戦争責任のことは何も触れられていない。これを無視することは、まさしく、奥崎謙三の思想と行動を無視することになるにもかかわらず、である。その点で多少とも良心的だと言えるのは、次の『朝日新聞』の記事である。 ▽▽▽▽▽朝日新聞▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽ [見出し]再犯の恐れと/懲役12年判決/旧陸軍上官の長男に発砲 [本文] 58年12月の総選挙に兵庫1区から立候補中、広島県大竹市に出向き、旧陸軍時代の上官の長男に発砲し重傷を負わせたとして殺人未遂などの罪に問われた神戸市兵庫区荒田町2丁目、バッテリー販売業奥崎謙三(66)の判決公判が28日、広島地裁であった。荒木恒平裁判長は「自分の思想をひろめるため世間の注目を集めようとした計画的犯行。悲惨な戦争体験によるものだが再犯の恐れもある」と懲役12年(求刑同15年)を言い渡した。 奥崎は44年1月、皇居で一般参賀の際、天皇陛下めがけてパチンコ玉を撃ち、懲役1年6月の刑を受けるなどして服役している。 △△△△△△△△△△△△△△△ この『朝日新聞』の記事も、最初に掲げた『京都新聞』の記事内容には及ばない。一地方新聞にすぎない『京都新聞』が、どうして奥崎謙三のことをこれだけ大々的に取り上げたのか、興味あるところだが、その理由は今はわからない。きっと、何かわけがあるに違いない。 ☆こうやって何種類かの新聞を読みくらべてみると、マスコミの情報というものがいかにアテにならないものであるか、ということがわかるというものだ。事実はひとつであるはずなのだが、その事実も、どのように切り取るか(報道するか)によって、まったく違った内容になってしまうのだ。他人の色眼鏡によってゆがめられた情報を与えられるよりは、自分の眼で見、耳で聴いたもの以外は信じないほうがよっぽどマシである。――これが、我が家に新聞のない理由のひとつである。実際、我が家には新聞もテレビもないが、不自由に感じたことはほとんどない。 ☆『ヤマザキ、天皇を撃て!』 数百万人の無辜の民衆が死んだ、あの悲惨な太平洋戦争が、裕仁の詔勅で始まり終わったというまぎれもない事実は、日本人の中で裕仁の戦争責任が最も重く且つ大であることを、何よりも如実に証明するものである。 しかるに裕仁は、ヒトラーの如く追いつめられて自殺せず、ムッソリーニの如く民衆によって処刑されず、敗戦によってもまだ天皇迷信の蒙から醒めない多数の日本人の無知と怯懦に支えられて、今日なお特権的な生活を保障され、存在しつづけている。 この厚顔無恥としかいいようのない裕仁とその一族の精神構造は絶対に正常なものではなく、「現人神」(あらひとがみ)であった当時の奇怪異常なそれと全く同一なものである。かかる裕仁およびその一族が、今日なお天皇、皇族、皇室として民衆の上に君臨することについて、激しい怒りと大きな疑惑を感じない者は、あの悲惨な戦争を体験しながら、結局は何も学び取らなかったものであるといわなければならない。戦争の最高責任者である裕仁にその責任を問うことなく、敗戦前と同様に、尊敬・優遇しつづけてきた多数の日本人のこの感覚と態度は、去る昭和16年12月8日に無謀な戦争に突入した当時に日本人の示した狂った感覚と態度そっくりであり、そこには30余年の歳月が経過した年輪のあとが全く見出せない。 このようにして裕仁が、今日まで誰からも罰せられず、今日なお公然と天皇として存在するゆえに、私は、誰よりも激しい怒りと、軽蔑の念を、裕仁と、裕仁を許している者たちに対して、抱かずにはおれないのである。 その激しい感情を持続することによって、私は自己の精神が正気に近いことを確認することができ、人類の未来に絶望することを免れ、天皇がいる体制の中で不本意に送り迎える暗鬱な日々の生活を、辛うじて今日まで克服してこられたのである。 (中略) ……私が死ぬまで裕仁に対する殺意を捨てきれないであろう理由の一つは、ニューギニアの戦場で飢え衰えて死んでいった戦友たちの無念を忘れることができないからであると同時に、私が死刑になることを覚悟して殺そうとしても殺すことが不可能といっても過言ではないほどに、裕仁が私から遠く隔てられた高い所にいるからである。 ニューギニアの密林で、極限の状況裡にあって、飢え渇えた末に、孤独に寂しくむなしく死んでいった名もなき多くの兵士たちの亡霊に向かって、私は「天皇を撃て!」と、死ぬまで慟哭しつつ叫びつづけることをやめることはできない。 (『ヤマザキ、天皇を撃て!』三一書房刊 「出版にさいして」より) |