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back.gifアイヌ少女の訴え
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不義理に徹する




☆『論語』季氏篇に次のような言葉がある。
 「孔子曰く、生まれながらにして之を知る者は、上なり。学びて之を知る者は、次なり。困(くる)しみて之を学ぶは、又其の次なり。困しみて学ばざるは、民これを下となす、と」

 孔子の言っていることを、ぼく流に意訳すれば、およそ次のようになる。――
 1. 自分で考えただけで物事の道理のわかっているやつがいるが、これは人間として最上級の人間である。
 2. 自分で考えただけではわからないで、ひとから教えられて初めてわかるやつは、その次の人間である。
 3. ひとから言われたぐらいではわからないが、自分で痛い目に遭って初めてわかろうとするやつは、さらにその次の人間である。
 4. 何度痛い目に遭ってもわかろうとしないやつは、人間として最低の人間である。(「だらしないやつは、どこまでいっても、だらしない。どこまでいってもとは、どんな情況になっても、ということだ」と口を酸っぱくして言うぼくの言葉を忘れるな)。

 愚かな振る舞いをする前に、何が愚かなことなのかがわかっていれば、それは素晴らしいことなのだが、あいにく我々は考えてわかるほど明敏な頭脳を持っていない。とするなら、我々にとって最良の方法は、体験から学び取ること以外にはない。そこに、あの西洋の諺――

 経験は愚か者の学校

という諺が生きてくる理由がある。(「経験」と「体験」とは違うことに注意。「体験」を自分なりに受けとめたものが「経験」である。したがって、例えば、痛い目に遭うのは体験だが、それがそのまま経験になるのではない。痛い目に遭って、「痛い」とはどういうことなのかがわかって初めて経験になるのである)。ひとつの体験を通して、そこからどれほど多くのものを学び取ることができるかが、そのひとの人間としてのねうちを決定するのである。

☆孔子様に異論をとなえるわけではないが
 ぼくは、「ひとから言われて初めてわかる」というやつを信用していない。ぼくに言わせれば――

 自分で考えてわからぬやつは、ひとから言われても、わからない。

 ぼくは大学に9年間学び、そして、大学に残る道も開けたとき、大学という組織の汚さに我慢がならず、これを批判して大学を去ろうとした。そのとき、ぼくを取り巻くほとんどすべての人々が、それがいかに損なことであるか、いかに視野の狭いことであるかを説いた。また、9年間学んだ学問を捨てることが、いかにもったいないことかを言う人もいた。彼らはすべてぼくのタメを思って、心の底から忠告してくれていた。しまいには、これだけ言ってもわからないのかと、本当に怒りだす人もいた。

 彼らがぼくのタメを思ってくれればくれるほど、その忠告に従わないことは不義理なことだった。そのとき、ぼくは知った、「自分の信念を通そうとすることは、ふつう言われているほど立派なことでは決してなく、本当は不義理を重ねることなのだ」ということを。そして、「自分で考えてわからないやつは、ひとから言われても、わからない」と、我と我が身に言いきかせて、ぼくは大学を去った。

 上の言葉は、逆に言えば、「自分で考えた結論には、他人の忠告さえ入る余地はないのだ、というぐらいの自負を持て」ということ、あるいは、「それぐらいの自負が持てるだけのことを考えよ」ということである。自分の思想・行動について、ひとからその欠点を指摘されて、「あッ、そのことは考えてもみませんでした。ハイ、スミマセンデシタ」と改めなくてはならないような真似をするな。そんな真似をすることを恥じよ、ということでもある。

 恥じなくてもよいようにするには、どうしたらよいか?――

 常に最悪の事態を考えよ、そして、その時にどうするかを覚悟せよ。

 ぼくたちは男として、少しでも男らしく生きたいものだ。男らしさとは何か? それは、誰の世話にもならないという覚悟だとぼくは思う。そういう覚悟を持って生きているとき、一宿一飯の世話になったことさえ、自分の生命を賭して返さなくてはならない恩義になるであろう。
 その恩義に報いることができず、不義理をしなくてはならないとしたら、その不義理に徹することである。謝罪の要はない。そのかわり、たとえ相手が赦してくれても、自分が自分を赦してはならない。それが、自分が不義理した相手に対する、せめてもの誠意というものであろう。


 「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というのはビスマルクの言葉だそうだ。
 しかし、ビスマルクは、古いローマの諺「経験は愚者を教ふ(experientia docet stultos)」「経験は物の最上の師なり(experientia est optima rerum magistra)」「経験は愚者の師なり(experientia stultorum magistra)」を応用したにすぎないであろう。
 知恵というものは、しんしんと深められてゆくものだ。
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