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back.gif哲学少年リョージ
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戦争に反対する戦争




☆吐き気
 先だって、「ゆきゆきて神軍」のビデオを見たとき、一瀬君が、「一日気分が悪かった」と言った。これに対してぼくが、一瀬君の感受性の鋭さ、あるいは、想像力の豊かさを賞賛していたのを覚えている人もいるだろう。ところで、今、『群論、ゆきゆきて神軍』という本を読んでいるが、その中に、田村のり子という詩人が、「(あの映画の)試写の帰途、十五の娘は、吐いてしまった」と書いているのを眼にして、これは単に想像力の問題ではないなと思うようになった。

 話は変わるが、先日、本屋でエルンスト・フリードリッヒ編の『戦争に反対する戦争』(龍渓書舎)という本を見つけた。第一次世界大戦時が中心だが、戦争の悲惨さを写真で見せることによって、戦争反対に立ち上がるよう呼びかけた内容である。その写真集を見ていて、さすがのぼくも気分が悪くなった。そして、この本は君たちにはちょっと見せられないな、と思った。というのは、ぼくが中学の何年生の時だったか、原爆の写真集を初めて見たときの「心の傷」を思い出したからにほかならない。

 中学生のぼくにとって、原爆の写真集は正視に堪えない内容であった。ケロイドの写真を見たときは、口の中まで不快になった。しかし、ぼくの眼に焼きついたのは、爆心地近くの瓦礫の山に、ほとんど炭化してしまった黒こげの少年の屍体が転がっている写真であった。(どうしたわけか、ぼくはそれが新聞配達の少年であると思いこんでいる)。ぼくには、これが人間であったとは、いや、自分と同じ生きた少年であったとは、どうしても信じることができなかった。しかし、信じないわけにもいかなかった。とすると、これをどう解釈したらよいのか?

 その日、ぼくは半ば放心状態で下校したのではないかと思う。あれは悪夢なのだ。この世には美しいものがいくらでもあるのだ。――そのように自分に言い聞かせ、次々と映る美しいものを自分の心に植えつけるようにして歩いていたのだろうと思う。そうでもしなければ、ぼくは心身の平衡さえ保てなかったろう。

 その当時、ぼくは阪急電車嵐山線で通学していた。上桂駅には、改札口を入るとすぐ右手の線路側に、古い枕木を焼いて作った柵があり、そこに野生の白バラが咲いていた。黒焦げの少年の屍体を危うく思い出しそうになったぼくは、夕陽を受けて輝くばかりに美しい白バラをじっと見つめていた。ほら、雑草でさえこんなに美しいじゃないか。これが本当なんだ、とぼくは自分に言い聞かせた。そして、その美しさに自分を包み込もうとでもするように、ぼくは柵に近づいて行った。

 白バラは、誰も手入れする者がないらしく、小さな貧しい花を、それでもいくつも咲かせていた。そして、その白さは本物であった。――その花を凝視していたぼくは、思わず息を呑んだ。どの花もどの花も虫に喰われ、そこが無数の小さな黒い斑点になっていたのだ。その時、ぼくは、その植物の根本の瓦礫の上に、あの黒焦げの少年の屍体をはっきりと幻視し、こらえきれぬ嘔吐を感じた。

 あの吐き気は何であったのか? 今のぼくには説明できるように思う。――ぼくたちは、自分を取り巻いている世界とは大体こんなものだと了解し、そして今日のようにまた明日があるだろうと信じている。そうすることによって初めて、ぼくたちは毎日をたいした不安もいだかずに生きていられる。純粋無垢であったアキオ少年も、そうした平和で美しい世界に生きていた。だが、人間はあのように死に得るのだということ、そして、死とはあのように無意味で醜悪なものであるということ――この認識は、清純なアキオ少年の心に思い描かれていた世界のイメージを崩壊せしめるに充分であった。あれは、まさしく、アキオ少年の世界が崩壊した瞬間だったのだ。世界崩壊という精神的衝撃に対する情緒的反応が「吐き気」にほかならなかった、と。

 あの「吐き気」は、長い間ぼくの「心の傷」として残った。たしかに現実を知らせることは大事だ。しかし、その知らせ方は、心に傷を残すような過激なものであってはならない。これが、『戦争に反対する戦争』という本を君たちには見せられないなと思った理由である。

☆「プラトーン」
 今、祇園会館に「プラトーン」が来ている。みんなの中には、すでに見た人もいよう。おくればせながら、ぼくも見に行った。

 前評判の高い映画で、封切り初日にぼくも見に行ったのだが、切符売り場に行列ができているのをみて、見る気がしなくなって帰ってしまった。その後、大学で映画研究部に入っている卒業生がやってきて、「先生、あれは一見の価値はありますよ」と言う。”自分は戦争には反対だが、心のどこかに、カッコイイと思うところもあった。しかし「プラトーン」を見て、本心から戦争はいやだと思うようになった。それだけでも見る価値はある”と言うのだ。その卒業生の話を聞きながら、そんなものかなぁ、と思っていた。

 見終わって……映画館を出るときのぼくの心の中には、言いようのないやり切れなさが渦巻いていた。戦争の悲惨さに対してではない。そもそも、戦争が悲惨なものであることぐらい、初めからわかっていることではないか。ぼくがやり切れなかったのは、あの映画の中で、アメリカ(白人社会)の正義は、結局のところ、何ひとつ傷ついていない(何ひとつ反省していない)ということ。したがって、その白人の正義の足許で、累々と屍を重ねていったベトナム人の無念さなど、あの映画の監督にはおそらく何もわかっていないであろうということに対してである。

 映画の内容については、みんなも知ってのとおりである。地方の、貧しい者たちばかりが(したがって、当然に黒人が多くなるのだが)戦場に送り込まれるという社会の矛盾に反発した、正義感に燃える主人公が、みずから志願して一兵卒としてベトナム戦争に参加する。(なぜベトナムで戦争があるのかなどという疑問は、主人公には無縁のものである)。そして、戦場の残酷さを体験しながら、立派な戦士に成長した主人公は、北ベトナムの大攻勢の中で死にもの狂いで戦い、それゆえ英雄として(ということは、それだけたくさんの人間を殺して)生還する、というのである。映画の終わり近く、激しい戦闘の夜が明けて、累々と横たわる死体の数を数え上げてゆく場面がある。アメリカ兵100に対して、ベトナム兵500。そして主人公は生き残った……。あれはいったい何なんだ。「ランボー」や「コマンドー」とどこが違うのか。

 あの映画は、アメリカ兵の残忍さをも多少正直に描き出した。それをもってアメリカ人が、「今こそ公正にベトナム戦争を振り返る時だ」「これこそアメリカの良心だ」と騒ごうが騒ぐまいが、それはアメリカ人の勝手というものだ。しかし、アメリカ人ならいざ知らず、ベトナム人の同胞である日本人までが、あの映画にいたく感激しているという理由がぼくには理解できない。

 それはそれとして、「プラトーン」をきっかけにして、”戦争の悲惨さとは何か”という疑問がぼくの心をとらえた。「プラトーン」は、今までのどの映画よりも戦争の悲惨さをよく描き出しているという。たしかに、片足を失ったベトナム人の男を、ただ笑っているように見えるというだけで、銃床でなぐりつけて殺し、脳漿の飛び散るのを初めて見たと言って興奮しているアメリカ兵。残忍だ! ぼくは怒りに震える思いだった。しかし、そういう悲惨さを追いつめていって、そして究極の悲惨さのようなものに行き着いたとして、それが戦争反対の根拠になるだろうか、というのがぼくの疑問であった。

 このとき、ぼくの頭を横切ったのは、エルンスト・フリードリッヒの『戦争に反対する戦争』に載っている写真であった。そして、結論から先に言うと、より悲惨なもの、もっと悲惨なものというふうに求めていっても、結局のところ、その度合いに応じて戦争反対の意思が強くなったり弱くなったりするわけではない。つまり、戦争に反対する動機は、悲惨とか残忍とか残酷とか、そういったものとは何か別のものではないかということだ。


☆エルンスト・フリードリッヒ『戦争に反対する戦争』(龍渓書舎)

Ernst Friedrich(1894-1967)
 生涯の大半を反戦・平和の活動に捧げたドイツ生まれの平和主義者。彼は、1920年代から30年代のヨーロッパの革命的・反権的意識を持った青年・労働者の中でも、最も挑戦的なそして最も独創的な反戦啓蒙家の一人として、また、ヒトラー時代のドイツにおいて、あくまでも平和主義者であることを貫こうとした勇敢な人物であった。


全世界の人々へ

 私、エルンスト・フリードリッヒは、誤って「ドイツ人」と呼ばれている。本来、単に「人」と呼ばれるべきものである。その私が、声を上げて呼びかける。北極の氷の上に生きている人に、アフリカにアメリカにアジアにそしてヨーロッパに生きている人に、そして、私の声が聞こえる所に生きているすべての人に、私は呼びかける。私の呼びかけの言葉はたったの2語――人間そして愛――である。

 南のオーストラリア人が、苦しみに遭遇すれば泣くように、喜びや幸せが与えられれば笑いはしゃぐように、北に生きる汝らエスキモーの兄弟も同じことをする。汝らアフリカ人、中国人もまた同じ。そして私もまた、同じことをする。私たち人間がみな、等しく喜びや苦しみを共有するように、私たち人間はみな、共通の恐るべき敵・戦争に対して、団結して闘おうではないか。団結して闘い、かつ、私たち人間が等しく罪悪としている忌まわしい大量殺人行為に対して、悲しみの涙を共に流そうではないか。そして同時に、私たちの目をしっかりと見開き、自由と平和に満ちた真っ赤な夜明けを、世界中がひとつの平和な祖国になる日を、そして何より、人間にとって世界が一つの平和な祖国になる日を、共に見つめようではないか。

 これまで、多くの書物が多くの言辞を費やして戦争という国家のなせる最も極悪非道な、卑劣な下賤な犯罪に対して、賛否を問うてきた。ブルジョア詩人は熱をこめ、戦争賛美の詩を作り、プロレタリア作家はほとばしる怒りをこめて、戦争否定の文章を書いてきた。人間の言葉は、しかし、百万言費やしても、戦争という野蛮な行為をありのまま伝えるには、不十分である。

 本書は、一部は偶然にそして一部は意図的に撮影に成功した写真による戦争の本であり、また、戦争の始めから終わりまでを事実に即し実景を忠実に映し出した記録である。本書に紹介されている写真は、50頁のものから最後の頁のものに至るまで、無情なそして事実直視のカメラの眼が捕らえたものであり、それぞれの写真は、塹壕や共同墓地、「軍指導者の虚言」・「名誉の戦死」その他諸々の「偉大なる時代の戦争賛美の詩」の実態についての記録である。これらの写真を前に、これらはすべて事実に反し戦争の実情を正しく伝えておらぬ、などと強弁できる者は、国のいかんを問わず誰一人もおるまい。また何人も、かような写真を見せるなど空恐ろしきこと、などとはいうまい。むしろ写真を眼にした者は、これでついに「名誉の戦死」・「英雄的戦死」などという美辞麗句の、そして、国益のために戦争を行う国家のペテンの正体が暴かれた、というであろう。

 本書は、戦争で利益をあげんとする者、戦争に寄生するもの、戦争を挑発する者すべてに献ずる。本書はまた、すべての「国王」に、将軍に、大統領に、そして大臣に、捧げられる。神の御名を通し戦争兵器に祝福を与える聖職者には、戦争バイブルとして本書を捧げたい。

 本書の写真を、いまだに戦争をしようと考えているすべての人間に見せよ。見せられてなお大量殺戮行為を良しと信ずるものがいるなら、彼を気狂い病院に繋いでしまおうではないか。私たちは、ペストを避けるように彼を避けようではないか。そうすれば戦争は、国粋主義者、戦争挑発者、国王そして将軍たちだけが他国のそれらを相手に、自らの費用で、自らの責任により行われるようになるであろうし、その際何人も、その意志に反して徴兵されることはなくなるであろう。このような戦争なら、すべての平和主義者、すべてのプロレタリアートの歓迎するところであろう。そしていつか、戦争熱狂者たちは勝手に戦争を起こし、お互いに滅亡しあうことになり、この地球上に平和が、恒久の平和がもたらされることになるであろう。

 だが残念ながら、こうした戦争熱狂者という輩は、「国民を巻き込まない戦争」をなしうるような人間たちではない。彼らは、戦争を企図し指揮する立場にありながら、自らを戦場に赴かせる勇気に欠けているし、自ら進んで素晴らしい「英雄的戦死」を遂げる勇気に欠けている人間たちなのである。だから彼らは、「祖国のために」・「名誉の戦死を」・「防衛のために」などという空々しい美辞麗句を次々と並べたて、そして私たちのような、勇壮な軍歌や捏造された「敵」国の悪業報告に惑わされず、すすんで死を賭して闘うことを潔しとしない国民に、その意志に反して殺人者の軍服を着せ、自分たちの金袋をより膨らますために、殺人と強奪を命じてきたのである。

 私は、やがて来る戦争を阻止する具体的方法を一つ考えている。昔、医者は患者の命を守るために、自らの財産を賭したということである。治療の甲斐なく患者が死んだ場合、医者もまた命を断ったそうである。それが、法であった。このような法を、国王に、大統領に、将軍に、そして、戦争賛美の記事を書き立てる新聞記者に適合させて次のような法を作るというのが私の方法である。

 「国民をして戦争に徴する者、国民に大量殺人行為をなさしめる者は、兵士となった者の命と苦しみを購うべく、自らの命と財産を賭すべし。国民をして軍旗のしたに駆り立てる王は、自ら旗手となるべし。一兵卒が食するものなく飢えたるときは、王もまた兵卒と共に物乞いに歩くべし。国民の賤家が戦火で焼かれたるときは、宮殿にも城にも火を放ち炎上させるべし。そして就中、前線の露と消えし一個の国民の命を購うべく、一人の王または一人の大臣が祖国のために「名誉の死」を遂げて安らかに葬られるべし。戦争を扇動した新聞記者については、10人一束にして、一兵士の命を購うべく、人質として拘留されるべし」。

 このような方法はしかし、今後とも成立することはあるまい。いわゆる「軍備撤廃」・「平和」会議も、私のこの提案に耳を傾けることはあるまい。だからこそ私たち闘う者は、戦争に反対する戦争に参加しようではないか。そして、戦争はなぜ引き起こされるのか、戦争の本質とは何かを熟知しようではないか。そうすれば、知識という鎧と精神という鋭い剣を装備した私たちは、この戦争に大勝利を収めることができるのだ。


戦争はなぜ引き起こされるのか

 紀元前427年に生まれたギリシャの賢人プラトンは、かつてこういった――「戦争はすべて、富の所有を求めることから引き起こされる」。彼のこの言葉は、昔も今も、真実である。これまでに引き起こされたすべての戦争をみてみれば、いずれも、金、財産、そして権力の保守または奪取がその目的である。この目的のための戦争は、資本による国民の支配・抑圧が続くかぎり、必ずや将来も引き起こされるであろう。各国の資本が相互の競争によって相手に脅威を感じたとき、石炭豪商や工場経営者たちが相互の利害に食い違いを見出したとき、彼らはみな無謀な国家主義者と化し、声高らかに叫ぶのである。――「祖国が危機に瀕している」と。彼らのいう「祖国」とは、彼らの金袋のことなのにもかかわらず。すると不思議千万、各国の資本の奴隷たる労働者たちは鋤を投げ、鉄敷きを捨てて、急ぎ武器に手を伸ばし、自らの血と命をもってご主人様の命と財産を守ろうとするのである。「不思議千万」という私の前言は取り消さなければならない。じつは、ごく当然な怪異的行為なのである。「臣民」をして王冠や王の金袋を守らしめ、王のために死なさしめうるのはひとり国家の権力や武力だけではない。資本もまた、単にその手に経済力を持つにとどまらず、国家と同等の手段と権力を駆使してプロレタリアートを国際的に支配してきたのである。この簡明な事実はしかし、しばしば見過ごしにされてきた。それは、プロレタリアートの心の中に、ブルジョア思想が巣くっているからなのである。

 したがって私は、兄弟たるプロレタリアートの人々に、階級闘争を闘う人々に次のように訴える。――「先ずもって、汝自身をブルジョア思想から解放せよ。汝自身に潜む資本主義に反対して闘え。汝の思索、汝の行動において、嘔吐を催すような俗物実利家根性や軍人根性は見え隠れしてはいないか。汝の心の中に、妻・子に対してさえも常に支配し命令する立場にいたいという指導的軍人意識はないか」。

 私はまた、戦争に反対する闘い方において単に仲間の手に接吻を与えるだけの、仲間と茶菓子を摘みあうだけの、あるいは、新人深げに上目使いに神に祈るだけのブルジョア平和主義者に対して、次のようにいいたい――「資本主義に反対して闘え。そして、すべての戦争に反対して闘え。我々が反対して闘わなければならない相手は、工場や鉱山にいる。兵士を英雄の死に至らしめる軍附属病院にあり、共同墓地を作る兵舎にある。つまり、我々のなすべき闘いは、明らかに果てしなく続くであろう搾取する者に反対する搾取される者の闘いなのである。

 諸君、どうかわかって欲しい。私のいう戦争に反対する戦争とは、暴利をむさぼる者に反対する犠牲を強いられる者の闘いなのであり、欺く者に反対する欺かれる者の闘いであり、抑圧する者に反対する抑圧される者の闘いであり、拷問する者に反対する拷問される者の闘いであり、そして、肥え太った者に反対する空腹な者の闘いである、ということを」。


戦争を防ぐ道

 資本がすべての戦争の原因である。だが、戦争に伴う罪は私たち自身にある。なぜなら、私たちプロレタリアートが戦争の遂行を可能ならしめているからである。戦争遂行を可能ならしめるのが私たちであるのならば、私たちはまた、戦争を阻止することもできるはずである。

 軍隊に入ることを拒否せよ。汝の子どもを、成長して軍人にならぬよう、育てよ。自らの過程において、戦争傾向が無意識のうちに醸成されていることに気づかぬ者の何と多いことか。家庭にこそ、すべての罪悪、そしてまた、戦争の根源が存在しているのである。母よ、汝が赤児を膝において軍歌を歌えば、それは、汝の赤児が成人して軍人となる準備をしているようなものである。父よ、汝が子に兵隊の玩具を買い与えれば、それは、汝の子に戦争意識を鼓吹しているようなものである。兵隊の玩具を与えることは汝自らの手で家庭に裏切り者ユダを引き込むようなものである。肝に銘じて記憶せよ。汝の子のかぶる紙で作られた玩具の兜は、必ずやいつか、殺人者の頭上の鉄のヘルメットになるのだ。汝の子が一度空気銃を撃つことを習ってしまえば、必ずやいつか、その子はライフルで人を撃つことになるのだ。汝の子の手にする木製玩具のサーベルは、必ずやいつか、軍刀に変わり人間の身体を突き刺すことになるのだ。わが子が他人の愛しき子を殺すことを望まぬ父よ母よ、汝ら肝に銘じて記憶せよ。汝らから兜、サーベル、鉄砲の玩具を与えられた子は、その優しい心の中に恐ろしい殺人者の芽を育むことになるのだ。一方、愛と連帯の中で教育され、人間の命の高潔さをいかなる場合も尊ぶ家庭に成長する子どもは必ずや、武器や軍隊が不似合いな子になるのである。

 私たち軍隊に反対するものは子どもの前で、軍人に与えられる栄光や追従を完全にぶち壊し、軍人のつけるけばけばしい飾り物を引っぱがし、そして、私たちの信じる軍人観を率直に言わなければならない。軍人とは、国家が雇った職業的殺し屋であり、国家から特権を与えられた殺し屋学校(すなわち、軍隊)で殺人行為の訓練を受け、結局は、極悪犯罪中の犯罪である人間を殺すことを遂行する者である、と。このことこそ、すべての子どもが教えられなければならないことである。そうすれば、生まれながらに生命を生み、生命を守る定めにある若き女児たちは、彼らの生来の敵・「死の紹介人」たる軍人と遊ぶことを嫌悪するようになるであろう。そして男児は、それが殺人者の衣服であるがために、軍服を身に着けることを拒むようになるであろう。汝親として、子の悪を未然に防ごうと願うならば、こうした明解なる考えと正確なる行動をなすべきである。

 それでもなお、万一戦争が引き起こされるならば、そのときは終始一貫、躊躇することなく、戦争に反対する戦争を遂行すべきである。手始めは、総同盟罷業(ゼネスト)を武器とせよ。男たちは軍隊に入ることを拒否せよ。真の英雄的行為とは、人を殺せることではなく、人を殺すことを拒否できることである。軍隊に入るよりむしろ、各国の刑務所、強制収容所、精神病院に入りそこを埋め尽くせ。その方が、資本に奉仕して人を殺し、自らの命を断つことよりもましである。ガス、毒、火災が人間に、動物に、馬に浴びせかけられる究極の、そして最も恐ろしい戦争はいまだ引き起こされていない。こうした最も恐ろしい悲劇を防止し阻止する力は、私たち自らの手に、力に、ある。偉大な勇敢な良心的兵役拒否者の実例を、私たちの遂行すべき闘いの模範とせよ。彼らは、終始一貫、軍人となって殺人を犯すことに「否」を唱え続けて、死に至らしめられた。すべての暴力、すべてのサーベル、すべてのライフルよりも強いものは、私たちの精神であり、私たちの意志である。「否」――この言葉を絶えず唱えよ。そして、唱えたとおり実践せよ。そうすれば、すべての戦争は遂行不可能となるであろう。全世界のすべての資本、すべての王、すべての大統領は、全世界の全国民が蜂起して「否」を叫んだとき、いったい何ができるのか。

 そして汝ら女性たちよ。万一汝の夫が心弱いとき、夫に代わって汝自身がこの仕事を遂行せよ。夫との愛の絆は軍隊の命令よりも強いことを立証せよ。夫を前線に行かせてはならない。夫のライフルを花で飾ってはならない。夫の首にしっかりと手をまわせ。出発の命令が下っても、夫を行かせてはならない。すべての鉄道を破壊せよ。そして、身を投げて列車の前に立ちはだかれ。女性たちよ、汝の夫が心弱きとき、これらを実行せよ。全世界の母たちよ、団結せよ!
                   1924年7月末
                     エルンスト・フリードリッヒ
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