title.gifBarbaroi!
back.gif再び戦争の悲惨について
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青春を誇るべし!




☆ボードレール「仇敵」
  若きわが世は日の光ところまばらに漏れ落ちし
  暴風雨(あらし)の闇に過ぎざりき。
  鳴る雷(いかづち)のすさまじさ降る雨のはげしさに、
  わが庭に落ち残る紅の果物とても稀なりき。

  されば今思想(おもひ)の秋にちかづきて
  われ鋤と鍬とにあたらしく、
  洪水(でみず)の土地を耕せば、洪水は土地に
  墓と見る深き穴のみ穿ちたり。

  われ夢む新たなる花今さらに、
  洗はれてかわらとなりしかかる地に
  生ひ茂るべき養ひをいかで求め得べきよ。

  ああ悲し、ああ悲し。「時」生命を食ひ、
  黯澹(あんたん)たる「仇敵」独り心にはびこりて、
  わが失へる血を吸い誇り栄ゆ。
                (『悪の華』より)

☆青春を誇るべし!
 先日、「我がクラスには個性的な者が多く、喜ばしいかぎりである」と言ったとき、”黙示録の獣”と自称するだけあって人の言うことを素直には受け取れないO君が、「ほめているのか、けなしているのか、わからへん」とつぶやいた。そう言われてみれば、ぼくの口調には何か相手をからかうような響きがこもっていたかもしれぬ。しかし、本当のところは、からかったのでも何でもなく、一種の羨望の気持ちが声に出たにすぎない。正直言って、ぼくはうらやましい。ねたましくさえある。何が? それは君たちの若さがである。

 青春を誇るべし。青春の持つその大いなる可能性を誇るべし。

 可能性とはどのようなものか。例えば、百点満点のテストで、九十点を取った者には、あと十点を取る可能性しか残されていない。三十点を取った者は、あと七十点を取ることのできる可能性を持っている。零点の者には、じつに無限の可能性が開かれている。可能性とはそのようなものだ。

 大いなる可能性を持っている君たちは、現実的にはいまだ何ものも所有していない。未所有なるがゆえに、激しくイラダツ。大いなる可能性を追求せんとする自尊心と、現実的には何ものでもないという劣等感との、この落差の大きさこそ青春らしさの証だと言ってよい。

 それは苦悩以外の何ものでもないが、薄汚い妥協によってその落差を安易に埋めようと思うな。苦悩から逃避してはならない。むしろ苦悩を味わい尽くすべきである。「苦悩をつきぬけて、歓喜に至れ」(ベートーベン)

 大事なことは、「暴風雨の闇」の中にありながら、しかも自己を失わないことだ。その闇の中から、他の誰の手も借りずに、自分の手でつかみ取ってきた自己こそ本当の自己だ。

 「人間は努力するかぎり迷うものである。だが、努力するかぎり救われる」と言う(ゲーテ『ファウスト』)。

 しかしぼくは言いたい。救われることをアテにしたような努力などするな、と。そんな打算的な努力は薄汚い。救われるか救われないかは単なる結果にすぎない。結果を考えた上で努力すべきではない。今―此処で自分の為すべきことに全身全霊を打ち込む(N君の好きな言葉で言えば、「人事を尽くして天命を待つ」ということ)――それが青春の行動というものだ。そのような行動なら、自分の行動として自分で責任が取れるし、また、自分で選んだものだから後悔もないはずだ。

 俗悪な”処世智”などは、好むと好まざるとにかかわらず、三十歳をすぎれば勝手に身につくものだ。心配することはない。

 青春の時を激しく生きよ。「暴風雨の闇」をつっぱしれ。青春を激しく生きた者のみが、「生の残骸の意識」にとらわれる。そして、そこから「思想の秋」が始まるのだ。本当の自己をつかみ取ることができるのだ。

 自己に厳しくあれ。常に思慮深くあれ。「中身が空っぽのカナダライほど、やかましく騒ぎたてる」(ピカート)。人生は短く、青春は更に短い。この「時」を薄汚い所行で冒涜してはならない。

☆「自分が何をやりたいのかを見つけるのは、なかなか大変だと最近よく思う」(N君の日誌〔11月25日(金)〕
 ぼくなどは、この歳になっても、自分が何をやりたいのかを探し求めている。君たちに比すれば残り少ない時間にせかされながらだ。泣き言をいっている間に、まずは*為せ!*
forward.gif風が吹いてゐる、/一本の骨の中に――。/
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