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再び戦争の悲惨について




 延々と読んできた『舞姫』も何とか終わり、今度は大岡昇平の『俘虜記』を読むことになった。フィリピンのミンドロス島山中において、死に直面した一人の日本兵士の物語である。サバイバル・ゲームの好きな者の多い我がクラスにふさわしい読み物と言うべきであろう。

 敵兵に完全に包囲され、また、自身もマラリやに冒されて、立つこともままならぬようになったとき、自分ならどうするか。A君は自決を考えるといい、N君は、殺せるだけ敵兵を殺して死ぬという。しかし、敵兵を殺そうにも、武器を持つ力もなかったとしたら? そうやって惨めにくたばってゆくしかない無念さ、その無念さの膨大さこそ、戦争の悲惨さではないか。

 ぼくの手もとに数葉の写真がある。右手に日本刀を持ち、左手には、今まさにはねたばかりの人間の首をぶら下げて、得意そうに、あるいは会心の笑みを浮かべて、記念写真を撮っている。これらの人たちは、特殊な人たちでは決してなかった。最も平均的な、あるいはむしろ善良とも言っていい日本人たちであった。そして彼らは戦後四十数年間、口を閉ざし、口をぬぐって生きてきた。そういう人間の卑劣さの膨大さこそ、戦争の悲惨さではないのか。

☆43年目の懺悔
 昨年の暮れだったかに、上のような新聞記事の活字を眼にした人もあろう。丹後の会社経営者が、戦後43年目にして初めて(自分が何をやったかをありのまま述べるのに、じつに、43年という時間が必要だったのだ!)、「南京大虐殺」の体験を明かし、中国人に詫びたいと申し出たというのだ。そして公刊されたのが、
 東史郎『わが南京プラトーン――召集兵の体験した南京大虐殺――』(青木書店)
である。

 映画「プラトーン」の評判にあやかって売らんかなの底意が透けて見えるような題名が嫌だが、内容はもっと嫌なものであった。

 これを読みながら、エルンスト・フリードリッヒの『戦争に反対する戦争』を、むごたらしすぎるとの理由で”君たちには見せられない”と思った自分の甘さをぼくは嫌悪した。事実は事実だ。それがいかほど受け入れがたいものであっても、事実から目をそむけて、いったい語るべき何があるというのか。

[昭和12年7月7日、蘆溝橋事件突発。9月、福知山歩兵第二十連隊を含む第十六師団は、河北省大沽に上陸。10月、筆者の属する第三中隊は、邸亮荘近くの部落を襲い、住民30数名を広場に集めて、銃剣で虐殺し始めた。敵がいた部落だから、住民は抗日に燃えているものと断定されたためである]。
 またしてもくり返される刺突。
 兵士たちは血しぶきを浴び、地獄の鬼のような様相である。凄惨さを追い払うように、死にもの狂いになって、銃剣を突き立てた。
 広場は、文字通りの地獄図と化した。
 また、老人と子供が引き立てられてきた。子供は、残酷な光景を目前にして、突き殺された親や一族のうめきと血みどろな姿におののいた。老人は、おろおろと少年をかばい、両手でひしとかき抱いた。
 「ヤァ!」「オゥ!」――鋭い気合いとともに、「ぎゃ!」という悲鳴をあげ、二人は抱き合ったまま、あお向けに倒れた。
 すると――。
 おお、何ということだ! 老人は、少年の胸からあふれる血に顔を埋め、吸い始めたではないか。いいようのない痛苦といとおしさの表情で、血まみれの老人は最愛の孫の血をすすっている。ずうずうと音を立てて、子供の血をすする老人――。
 何のために? なぜ? これほどまでに、老人は子供を愛し、消えようとする命がいとおしいのだった。惨憺たる崇高!
 建設への犠牲か。破壊ゆえの犠牲か。これが、戦争のあるがままの姿だ。これが戦争の感傷だ。
 このいいがたい悲惨は、電光のように我々を打った。
 老人はなおも少年の鮮血を吸う。子供の生命を自らに生かそうとするかのように。
 まもなく子供は痙攣し、最後のひと呼吸がきた。
 「ヤァ!……」
 ふたたび老人の背に銃剣が突き立った。ここでは、人間の生命は塵芥川ほどの値打ちしかなかった。

[昭和13年、第十六師団はまたもや北に転戦。新郷周辺で16名の現地人を強制的に徴発して、防衛陣地を構築させた。彼らは従順に働き、やがて陣地はできあがった。そして、3月24日]。
 16人のロートルは山の中腹へ連れていかれた。道路のすぐそばで彼らは次々に殺された。彼らは平然としていた。メンファーズと心を決めていたのだろう。まったく感心した。泰然自若として座り、首をさしのべた。日本の昔の武士が従容として死んだというが、彼らは武士に劣らぬ立派な態度であった。彼らのうち2名だけが逃げかかっただけであった。戦車隊の中尉が、四つの首をずばりと落とした。実にあざやかな手腕で、その見事さに皆感心した。中尉は5人目を斬る時、皮一枚を残して斬ると言って、また斬った。腕は確かであった。ぶらりと下がった首が少しの肉と皮で胴についていた。16名は目の前で殺されていくのを見ていたが、何の反抗も恐怖もしめさず、おのれの番になると、一歩前へ出て、どこか楽園へでも行くように、斬られたり突かれたりして、死んでいった。川田が、一人突き、二人突き、三人突いて、40歳を少し越えたかと思われる頑強そうな大男を突こうとして身構えると、大男はすっくと立ち上がり、みずから胸を開き突けと言わぬばかりの態度をとった。
 彼の目は川田をにらみ据えていた。
 川田はエイ!と一突きした。彼はばさりと倒れたが、
 「アッ!」と叫び、カッと目を見開いて、スクッと立ち上がり、胸から血を流しながら、日本語で『上等兵』と叫びニタリと笑った。なんとも言いようの無い壮絶な光景でみんな驚嘆した。
 川田は「クソ!」と叫ぶと、また一突き刺した。そして仁王さんも最後の息を引き取った。
 蹴ったり殴ったりして引きたてていった他の兵士たちは一人もよう殺さず、大林のごときは死体を突いたが、ほんの少し刺しただけで皆に嘲笑された。

[この虐殺に一度は反対した筆者であったが、その最期の立派さに、あれは敵の将校だったに違いないと勝手に判断してしまう。そして、惨殺に反対したことを深く恥じるのである。そして翌3月25日、戦車隊の兵が4人の中国人を連れてきた]。
 やがて昨日殺した死体の場所へ着いた。私は鞘におさめた刀をずらりと抜いた。戦友が若者の首にしめた縄をはずし上衣をぬがす。私は立ったまま斬る方が斬りやすいと思ったが、戦友たちは座らしてやってみろという。若者を座らした。
 「エイ!」と鋭い気合いで刀を打ち下ろした。
 刀で人を斬るということは生まれて初めてのことだ。その瞬間、実にその瞬間、目をとじたように感じた。刀を振り下ろすとともに刀を手前に引いたので体が斜めになって若者の倒れるのは見えなかった。後ろにいた間嶋一等兵が、
 「ア、上すぎた」
と叫んだので、振り向くと若者は前にのめって息たえだえになり、耳の少し上の後頭部が半分ほど斬れ、斬り口の下方から細い噴水のように血が吹き出ていた。
 ざくろの割れたような真っ赤な斬り口が、二つに割れている。斬る瞬間は何とも思わず無想であったが、ざくろのような斬り口を見た時、ふと嫌な思いがした。
 斬った瞬間、たしかに手ごたえがあった。
 刀にはほんのわずかな糸のような一条の血がついていた。二人目は見事に首を落とした。
 竜野一等兵が三人目を斬ったが全然問題にならず、ほんの一寸足らず背中を斬っただけであった。斬られた若者が苦しみ、もがいたので他の兵が二、三人で突き殺した。48歳の男は泣き叫び、命乞いをして手こずらせたので、逃がして背後から射つつもりで「逃げろ」といったが逃げもせず、いつまでも泣き、哀れみを乞うた。
 「そのまま射ち殺せ」と隊長が命じた。
 昨日から合計20名、20人の死体が山の中腹に点々と転がった。……

 学級通信の91号〔「戦争に反対する戦争」参照〕に、「戦争に反対する動機は、悲惨とか残忍とか残酷とか、そういったものとは何か別のものではないか」というようなことを書いた。
 ぼくも今までにずいぶんと無惨な写真を見てきた。本田勝一郎の『戦場の村』という本の扉に載っている写真(もはや人間の体をなしていない、肉の塊!)、『死者たちの語る戦争』という写真集(生きた人間はもはや出てこない、すべて死者ばかりである!)、『戦場カメラマン』という本の写真(敵の兵士の肝臓を取り出して食べているのだ!)
……そういった現実を、しかし、いくら積み重ねてみても、それが戦争に反対する動機にはならないだろうというのがぼくの考えだ。イタリアのファッシストの党首ムッソリーニの息子は、戦闘機のパイロットであったが、自分の飛行機が落とした爆弾によって人間が吹っ飛ぶ地上の光景を、”まるでバラの花が咲いたように綺麗だった”と、父親あての手紙に書き残したという。同じ光景を見ても、見る者によって、これほどまでに見方が異なり得るということ、これは恐ろしいことだ。が、そういう事実のあることを忘れてはなるまい。

 だから、必要なのは、より無惨な現実ではなく、それを無惨と感じることのできる感性があるかどうかである。そして、それは”量”の問題ではない。どんな小さなことであろうと、そこに人間の悲惨さを感じ取ることができるかどうかの”質”の問題だということを、もうひとつ付け加えて言っておきたい。
※ホーム・ページで自作の詩を発表している元皇軍兵士に対するわたしの未投稿書簡も一読していただきたい。
※また、NanjingMassacreをも参照のこと。

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