風が吹いてゐる、/一本の骨の中に――。/
今、隣の国で…… ☆焼身自殺相次ぐ韓国 ソウルでデモに参加した明知大生、姜慶大君が、警官の殴打で死亡した事件をきっかけに、先月末から反政府集会、デモ、それを阻止する警官隊との衝突などが繰り返される中、韓国は5月18日、光州事件11周年を迎えた。 光州事件というのは、1980年5月、民主化運動の高まりに危機感を深めた韓国軍部(戒厳司令部)が、戒厳令の全土拡大を発表。学生運動指導者や金大中氏ら有力政治家の一斉検束などの強硬措置をとった。伝統的に反権力色が強く金大中氏の地盤である全羅南道の中心都市、光州市では、その18日から、学生、市民らが反発して大規模なデモを展開し、鎮圧に投入された軍隊との間で市街戦に発展。27日に軍が制圧するまでに多数の市民が虐殺された。「光州事件」は、民主化運動・反権力運動の合い言葉となっている。 反政府デモに揺れる中、光州事件11周年を迎えた韓国では、18日夕、ソウルや光州、釜山などの各地で、追悼集会や反政府デモの参加者が約20万人にふくれあがり、ソウルではデモ隊が軍の車両を焼くなど、都心部で夜おそくまでデモが続いた。 この間、すでに5人を数えた焼身による抗議行為に、この日新たに3人が加わった。その中の一人は高校生であるという。新聞の記事から…… 「廬政権は退陣を!」。18日、高校生では初めて焼身自殺を図った金鉄洙君(18)は、光州市の病院に運ばれたとき、そう叫んだという。金君は、「5.18記念集会」が開かれていた高校の運動場に、校舎裏から突然火だるまとなって現れた。救急車の中で友人二人に、「統一の歌を歌ってくれ」と何度も頼んだ。その二人は目を真っ赤にして、病院の廊下の壁に顔を当て泣いていた。500メートルと離れていない錦南路では、光州事件追悼の集会のため、夕方から市民らが続々と集まり始めた。白い韓服をきた学生たちが、太鼓を激しく打ち鳴らしながら広場を回る。恨みを晴らす踊り「ハンプリ」だ。抗議の焼身自殺をこの国では、「焚身(ふんしん)」と呼ぶ。 今月8日、ソウルの大学で自殺した在野団体「全民連」役員の金基■君(25)の仲間によると、死の少し前、激論があったという。「もっと平和的な示威の方が現実的で、世論の支持も得られる」という年長者に、金基■君は「なぜ『平和的』なのか。彼ら(戦闘警備隊)から催涙弾を奪い取らない限り、また我々に撃ち込んでくるのだ」と反発した。 「純粋すぎたのだ」と仲間は言う。その言葉の奥には、運動の行き先が見えない苛立ちも垣間見える。運動団体は「焚身するな」とのアピールを繰り返した。だが、デモや追悼式では死んだ彼らを「烈士」と連呼し、大きな肖像画を掲げる。…… 18日昼過ぎ、ソウル・新村ロータリーに押し寄せた学生たちが、道いっぱいのバリケードをロープで引っ張り始めると、すぐに催涙弾と火炎瓶の応酬が始まった。対峙する「戦警(戦闘警察隊)」も、同じ年ごろの若者だ。 徴兵制の韓国では、男性は二十代の間に通常2年半、軍隊生活を必ず経験しなければならない。しかも、その約1割の5万人は戦警に配属され、デモ阻止など治安出動に駆り出される。…… 戦警のうち一部は、「白骨団」と呼ばれるデモ鎮圧専門隊になる。今回の反政府運動の契機となった姜慶大君致死事件で、逮捕された白骨団員5人は「鎮圧に失敗すると上官に殴られる」「石が降ってくる中、逃げ出したくてもできない」などと供述した、という。 (『朝日新聞』5月19日付) 「国家」という狡猾な仕組みの中で、同じ若者たちが敵と味方、催涙弾を投げる者と火炎瓶を投げる者とに分断され、相闘うという不幸を背負いながらも、それでも韓国の若者たちは常に民衆の先頭に立って闘ってきた。そして社会を変えてきた。李承晩(イスンマン)を大統領の座から引きずりおろしたのも(1960年)、朴正煕(パクチョンヒ)大統領との闘いの中で多くの犠牲者を築き上げていったのも、そして全斗煥(チョンドファン)大統領を引退に追い込んだのも彼らであった。 しかし、彼らの最大の不幸は、李や朴や全やといった支配者たちが真の敵ではなく、実は、それらを支える「大国」が裏にひかえている点である。だから、いくら犠牲を払って支配者を撃っても、やつらは多頭の怪獣のように次から次へと立ち現れてくるのである。そういう支配者たちを支えている「大国」の中に、日本も含まれていることを、ぼくたちは忘れてはならない。 |