今、北アイルランドで
「亜無亜危異」を聴いて ◇「亜無亜危異」は不快である。「亜無亜危異」が不快な理由は二つある。 そのひとつは、「亜無亜危異」のセンスのなさにある。リズムと歌詞とのちぐはぐさも不快であるが、いやしくもアナーキーというからには、どれほどanarchicな歌詞かと思いきや、まるでくだらぬ大人の説教でも聞かされているかのごとき感を受ける。 もうひとつの理由は、「アナーキー」と名乗るその厚顔無恥さにある。いやしくもアナーキーを標榜する者たちが、何故に市民社会でぬくぬくと歌などうたって金を儲けていられるのか? それは彼らがアナーキーの何たるかを知らず、むしろアナーキーを人畜無害な市民社会のペットにすることによって、自分たちの身の安全が保てることを知ったからにほかならない。(彼らは暴走族で*さえ*ないのだ)。これはアナーキーに対する赦しがたい冒涜である。 ◇anarchy、anarchist、anarchism――これらの語は、ギリシア語のアナルキア(αναρχια)に由来する。αναρχιαは、支配者を意味するαναρχοsに、否定・欠如の意を持つ接頭辞ανが付け加わってできた言葉である。したがって、αναρχιαとは、支配者がいない状態、つまり無法状態を意味した。 紀元前4世紀ころ、プラトンはその大著『国家篇』の中で次のように述べている。―― 民主制国家は自由こそ善きものだとして追求する結果、ついには動物にいたるまでαναρχιαが浸透する。そして父親は息子を恐れ、息子は両親の前に恥じることも恐れることもなくなる。教師は生徒を恐れてご機嫌をとり、生徒は教師を見くだした態度をとる。総じて若者は年長者と対等に振る舞って張り合い、年長者は若者に合わせて機智や冗談に満たされた人間となる。 かくしてαναρχιαの支配する国では、驢馬までが威張りくさって歩きまわり、道で出会っても、こちらが道をよけてやらないとぶつかってくるありさまだ。云々 18世紀にいたるまで、anarchyという言葉がよい意味で使われることは決してなかった。18世紀末のフランス革命当時も、anarchyまたはanarchistは、さまざまな党派が反対派の者たちを罵倒するために使った誹謗・中傷の言葉であった。 「法律は実施されず、権威は無力で軽蔑され、犯罪は罰せられず、財産は奪われ、個人の安全は侵害され、国民道徳は腐敗し、憲法はなく、政府はなく、正義はない。こういったことが、アナーキーの特色である」。 このような言葉で彼らは互いに相手を非難しあっていたのである。 しかしながら、anarchistという名称は、それが非難の意味に用いられた当の相手によって誇らしげに採用された。1840年、「財産とは盗みである」と断じた書物の中で、ジョゼフ・プルードンは、「我はアナーキストなり」と宣言した最初の人となった。ここに近代anarchismの歴史が始まったといってよい。 それでは、プルードン、バクーニン、クロポトキンと続くanarchismの巨匠たち、および、キラ星のごとく輝くanarchistたちの一致した主張とは何であったのか? それは一口でいえば、絶対自由の追究であった。国家の存在・機能そして国家権力を始めとするすべての政治権力を否定し、したがって人間による人間の統治を拒絶して、自由な個人の結合による社会を実現することに彼らの関心のすべてがあったといってよい。 プルードンは言う。―― 人が正義を平等の中に求めるように、社会は秩序をアナーキーの中に求める。アナーキー――主人も君主も存在しないこと――このようなものが、われわれが日々近づきつつある政府の形態である。 ◇ウドコックはanarchismを次のように要約する。――アナーキズムの究極の目標はつねに社会変革である。その当面の態度はつねに社会的批判の態度である。その方法は、つねに暴力的または非暴力的な社会的反乱である。 「亜無亜危異」の歌にはたしてどれほどの反逆性が秘められているのか? たしかに彼らの歌の内容には、社会的な批判の態度が見えないわけではない。彼らは、「TVや雑誌にふりまわされてる」やつらや、偽善者や、「おとなぶるクソやろう」や、「自分の生活だけを考え」て「自分を安全な場所におく」やつらを口汚くののしる。そして、どうやら、自分をだまさないで生きろ、ということを言いたいらしい。彼らの批判は、批判されるものにとって、薬にこそなれ、けっして毒にはならないであろう。まるで説教でも聞かされているようだと言ったのは、そのことである。 結局のところ、彼らの批判の立場は、善良なる小市民的世界を一歩も外れるものではない。だからこそ彼らは、自分たちを「うす汚ない」「ハンパ者」だと卑下したりする。だからこそ、彼らにできることは、せいぜい、「一流とエリートが合い言葉」の「団地のオバサン」や、「宣伝カーに乗った政治家たち」や、「頭はからっぽ」の「バカな女」や「バカな男」をからかって、「歌いまくる」ことぐらいでしかない。目くそが鼻くそを笑う程度のことである。 そういう彼らが「アナーキー」などと名乗っていることが不快なのである。なにが「オレたち ほんもの イェー アナーキー」だ!? 彼らには、毒を盛るべき敵がまったく見えていない。anarchy――それは市民社会の秩序そのものに対する根本的否定である。それは、むしろ善良なる市民たちにこそ毒を盛り、市民たちの憎悪を煽りたてる。なぜなら、敵は市民たちの小市民性にこそあるのだから。 ◇人間が完全な自由に任せられたとしたら、人間は何をしでかすかわからない。だからこそ法律が必要なのであり、その法律を執行する政府が必要なのである、と善良なる市民であれば言うだろう。完全に自由な世界では、人間の(あるいは、自分は)何をしでかすかわからないという、この人間(自己)不信が、支配者はもちろんのこと、被支配者たちの頭の中から消え去らない。人間はむしろ自由を恐れているとさえ言える。 これに反して、anarchistは主張する。――人間が低劣であるのは、彼らが自由を奪われているからにほかならない。完全に自由な世界では、人間は友愛によって社会を結合しようとする力強い道徳的衝動を持っている。したがって、さしあたって必要なことは、あらゆる権力を廃絶することである。―― anarchismの持つこの破壊的な面が強調されると、anarchismはたんなる破壊の哲学とみなされ、nihilismと同一視されやすい。しかしanarchistにとって、破壊の思想がそれだけで孤立していることは一度もなかった。バクーニンは言う、「破壊への情熱は、また創造的情熱でもある!」と。人間は自由と社会的調和の中で生活する本性を持っているという確信――これこそanarchistとnihilistとを分かつものであった。 にもかかわらず、anarchismが人々に一種の罪深い嫌悪を起こさせるのはなぜか? それは、いっさいの権力を否定して(民主主義をも否定して)個人の自由を絶対化するという教義が、現代のタブーにふれるものであり、それゆえ、自由をむしろ恐れる人々に激しい不安を与えるからだと考えられる。 ◇自由との本来恐ろしいものである。君がもしも、法によって保護されたようなものでない自由を求めようとするなら、君は無法状態anarchyに耐える覚悟をしなければならない。そこでは日常不断に死を賭けた戦いの姿勢が要求されるだろう。君がもしも絶対的自由を求めようとするなら、例えば荒野にたたずむ独りの人間を想像してみるがいい。彼は何をしようと自由である。 その彼が先ずしなければならないことは何か? それは死の恐怖と戦い、それを克服することである。さもなければ、彼はいたずらに荒野をさまよい歩き、やがて狂死することであろう。(荒野をさまよい歩くだって!? いったい何を求めて? 何から逃げるために? 自由な人間は、自分以外に依存すべき何ものもないはずだ。自由な人間は、自分の<位置>に不動の姿勢を保たなくてはならない。いかなる恐怖をも克服して)。 次に彼のしなくてのならないことは、生きるために足元の地を耕すことである! 額に汗して営々と耕し、やがて年老いて静かに死を迎える――自由とは、そして自由人とは、そういうものではないのか。そして、どうやら、そういう人間の寄り集まったような社会が、anarchistの夢想する未来社会の原型であるようだ。 「私が心から服従を捧げることのできる力は、たったひとつしかない。すなわち、私自身の理性の決定、私自身の良心の命令」(ゴドウィン) |