秋風がはこぶ京だより
将軍塚から千年の古都を望む
心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ
(新古今・秋上より)
将軍塚
 遥かいにしえの昔、桓武天皇は和気清麻呂の薦めでこの峠(現在の将軍塚)にやってきました。山背国葛野(やましろのくにかどの)と呼ばれていた巨大な湿地帯・無数の河川や泉に覆われた盆地を見渡し、長岡京を捨てる事を決意したのです。藤原種継暗殺事件の首謀者として謀反の罪をかけられて憤死した弟・早良親王(さわらしんのう)のたたりを恐れ、母親や宮中の女官たちの相次ぐ死や疫病の蔓延など悩み多き日々・・。建都10年たらずの長岡京から逃れたかったのでしょう。絶食で無実を訴え、薬湯にも手をださず十日あまりで淡路島に流罪の途中亡くなった早良親王の怨霊を武将の像(はにわのような土の人形)とともにこの地に封じ込め、都の護りとしたのです。それ以来国家に異変のあるときには、この塚が鳴動したと色々な書物に書かれています。
 今「将軍塚」は、京の夜景を眺め恋を語るデートスポットです。
東山・青蓮院裏山にある旧粟田御所に、将軍塚はあります。「大王松」とよばれる由緒ある松が、塚を護るかのように枝を伸ばしています。この松葉でできた御守りを財布に入れておくと、お金が減らず幸福になれるという言い伝えがあるのです。非売品ですが幸運に恵まれた人も多々あるということで、遠方からもこの御守りを授かりに善男善女が訪れます。
承明門から紫宸殿へ
 千二百年もの長い間、都だったこの盆地。人間がひしめきあい・欲望がうずまき・怨み、そして呪い・・・。
 鳴くよ 物の怪 平安京 。以来四百年、栄華を誇る都の影には真の闇がひろがっておりました。あやかしや邪気が人の心に忍び寄り不安を呼び、恐怖感が人々の心にひろがっていったのです。
 「雅な闇の時代」にその深淵を覗いていたような・・・人の世の裏側にもよく通じており、高い教養や鋭い感・そして困難をものともせぬ勇気であやかしを支配する術を身につけた男がおりました。陰惨な闇の中を、ひょうひょうと流れる浮雲のような男(夢枕 獏の“陰明師”より)・安部晴明こそ、その人です。
宜秋門(ぎしゅうもん)前での蹴鞠・貴族たちが舟遊びに興じた御池庭・天皇の住まい清涼殿
 歌会や舟遊び・蹴鞠と、栄華の中で甘んじた暮らしにどっぷりとつかる貴族たち・・・。“勇敢に強く生きぬ”くという人間に課せられた使命を忘れてしまいそうな毎日の中で、祟りとしか思えぬ災厄が次から次へ・・・、都は、“怨霊都市”の姿をあらわにしていったのでした。怨霊におびえる貴族たち・・。
 天皇の住まい・清涼殿のすぐわきに、北面があります。滝口と北面に天皇や貴族たちを護る為、ガードマンとして控えていた武士の子孫の中から、後に政権を握った平家や源氏が登場するのです。
    
蹴鞠
動画紹介460Kb
清明神社・清明祭 九月二十六日
 阿部晴明は、天文陰陽博士として朱雀帝(すじゃくてい)より村上、冷泉(れいぜい)、円融、花山,一条の六代の帝に仕えました。唐へ留学し帰朝するや、わが国独特の陰陽道を確立しました。今日我々が日常生活の基準とする年中行事、暦術、占法等は、この時より創られたものです。「陰陽道、奇門遁甲(きもんとんこう)に通じ式神をあやつる」【荒俣宏作 帝都物語より】安部清明は祈襦呪符の一つに、天地五行を象どり万物の除災清浄をあらわす五芒星(ごぼうせい)形【ペンタグラム、ドイツではドーマンセーマン】を用いました。清明神社の社紋で俗に清明桔梗と呼ばれています。
 
    
 清明は、移り行く星雲を見ては宮中の変事を予知し遠国の吉凶を判断させるなど朝野の信望をよせられておりました。
 酒宴などでは自重し、健康管理もきちんとしていたのでしょうか。一条帝の御代、寛弘二年九月二十六日・御年八十五にてこの世を薨死されたそうです。
 「清明御霊神として祀られるや、我国陰陽道の祖として広く世の崇敬を受けられ祈るに任せて皆々奇偉なる霊験に俗し、方除守護、火災守護、病気平癒等疑ひなきものなり・・。」

 安部晴明がまつられている「清明神社」は、堀川通りに面しています。南へ百メートルの処に、源氏物語に「ゆくはかへるの橋」とかかれ、和泉式部も歌に詠んでいる「一条戻り橋」があります。すぐそばには清明が式神を封じ込めたといわれる穴があり、近寄ると、何かしらぞっとするような不思議な空気を感じます。広く明るい堀川通りですが、戻り橋の柳の下、雑草がこんもり茂った土手の下は決して覗かぬように!式神に曳きこまれていきますよ。気をつけて!
 現在でも、「戻る」を嫌い葬列や入嫁列は渡らぬ習わしとなっています。
 九月二十六日の清明祭には、多くの人々が参拝に訪れていました。夜になると、御神楽も奉納されました。巫女の舞いと太鼓や笙の響きもフィナーレがちかずくにつれ、研ぎ澄まされた音色はだんだんと熱気を帯び、人々の祈りと気迫で不思議な世界に引き込まれて行きそうでした。

動画紹介738Kb
 安部清明が、神殿にたたずんでいる気配さえしてきます。神殿で祈り続ける神主さんたちの額にあせが光っています。巫女が、煮えたぎった釜の湯の中に笹をつけたのち、それを四方に思いっきり振るのです。しぶきを浴びた人々は熱いともいわず、嬉しそうに「かかった、かかった!」と大喜び。きっと無病息災まちがいなしですね。
 このあと、こどもたちが、神輿と共に町内の小路を静かに提灯行列してまわりました。
 秋風が運んだ京のお祭のひとこまです。
 京の都は加茂川の氾濫などの自然災害はもちろん、伝染病がたびたび蔓延しました。権力抗争は長い歴史の中で絶え間なく繰り返され、かって人間であった怨霊の祟りとしか思えないぬ災厄が次々と人々をおびやかし、京は“怨霊の都”となってしまったのです。
 妬みや恨みから小さな諍いが生じ、いろんな利害関係が多くの人をまきこみ、やがて血を血で洗うおぞましいほどの戦乱の日々が都を破壊していったのです。それが、応仁の乱です。
 しかし、人々は逞しい!京の都の大半が応仁の乱で焼失したのですが、それ以後道路を介して向かい合う人々が一つの町を造りました。ごく自然な形でできた生活の町「両側町」です。この生活共同体を母体として、祇園祭など祭礼も町衆の頑張りで発展してきたのです。思えば京の町衆は、戦乱・加茂川の氾濫・・・厳しい時代の流れをバネに生きぬき、素晴らしい京文化を築き伝えてきたのです。
 今、世界的な不況・テロの脅威と不安な空気で日本は覆われています。光が未だ見えない・・・。
 錦天満宮に錦の銘水を汲みに行ったとき、ふと目に留まった絵馬・・・。外国からの訪問者が、祈りをこめてかけた絵馬です。
  一日も早く、戦争が終わり平和になり,景気がよくなりますように・・・・。
 悠久の都・京都は、まもなく錦繍の秋をむかえます・・・・

錦天満宮にて

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