広域計画と地域の持続可能性〜地域活性化の視点から〜
左三角
前に 上三角目次へ 三角印次へ

 

地域活性化とはなにか〜その意味の変遷

 

 これからお話させていたくのは、そのうちの地域活性化というテーマです。

 地域活性化はよく使われる言葉ですが、そのイメージが共有されているかというと、そうでもないのです。特に人口減少社会にあって、そのことが課題になってくるのではないか、広域政策にも大きく影響してくるのではないかと思います。

 実は私が担当した3章のあと、4章で経済地理の大家であります松原宏先生が産業を書かれています。ですから瀬田は産業以外のことを書けと言われ、それはなかなか難しいなと悩んだのですが、産業以外の部分も含めて、改めて昔をふりかえることから始めてみました。


■地域活性化とは

 活性化という言葉は化学の用語だったという方もおられますし、広辞苑を引くと次のように化学用語として、活性化エネルギーといった用例とともに説明されています。

     
     かっせい‐か【活性化】   (広辞苑)。
      沈滞していた機能が活発に働くようになること。また、そのようにすること。
 
 昔から、国家経済、地域経済、特定地域(港湾地区など)、特定業種(農業など)の分野で使われてきました。どちらかといえば、停滞・衰退しつつあるものを、再び成長させるというニュアンスで使われていることが多かったと思います。

 しかし「地域活性化」という形で使われ出すのは、1980年代前半からからです。

 新聞や論文の検索でもそうです。

 衰退しつつある地域があるということが政策課題としてクローズアップされてきた時期と重なるのだろうと思います。


■1980年代の日本の地域政策

 オイルショックのあと日本の経済が沈んでいましたが、1980年代はふたたび安定成長期に入ったころです。

 このころから経済成長はある程度達成した。それにたいして公害問題といった副作用が出たことが反省され、「地域」に目が向き始めた時代だったと思います。

 そのとき、対照的な2つの地域活性化手法がありました。

 一つはトップダウン的な地域開発政策です。たとえばテクノポリス構想、地方拠点都市地域等々です。

 それに対してトップダウンな地域開発ではダメだと主張し、ボトムアップ的な、地域資源を生かした地域振興策も論じられ、実行されました。代表格が一村一品運動です。

 両者の手法やイメージには、片や「大規模開発事業」にたいして「地域特産品の開発」、片や「民間資金(大規模)導入」に対して「内発的発展」と大きな違いがあるのですが、きちんと見ていくと目標には共通点も多かったことが分かります。

 それは「所得の増大・雇用の増加」「人口(特に若年層の)維持・増加」を両者とも目ざしていたということです。

 これは大規模開発についてはおなじみのことです。

 一方、一村一品運動に代表される流れも、「いや、所得は上がらなくてもいいんだ」とか「雇用は減っても良いんだ」といった主張は、文章を見ている限りは出てきません。

 特に若年層を地域に根付かせるということは、両者とも重視していました。


■過去の地域政策の評価

 では、30年後の2010年代、1980年代と同じ手法・イメージ・目標がそのまま通用するか、という問題があります。人口は減っていきます。一部の頑張る地域で増加するところもあるかもしれないけれど、それは例外です。そうなると80年代の政策は、すべての地域では通用しなくなると思います。

 たとえばテクノポリス政策を検証した文献で成功したと言っているものはほとんどありません。なかにはうまくいったテクノポリスも浜松や宇都宮のようにあるのですが、全体としてはうまく行かなかったとされています。

 片や、内発的発展、ボトムアップ型の開発は、今でも求められてはいますが、いままでのところ、そのことで過疎化にストップをかけられたかというと、やはりできていません。

 こういった状況を見ると、元々、描いていた目標が楽観的すぎる、地域活性化というもののイメージを変えていった方が良いのではないかというのが私の発想です。

 それはみんな分かっている、特に若い世代は分かっていることではないでしょうか。


■改正中心市街地活性化法(2006)にみる活性化のイメージ

大部分の市町村には高かったハードル
 2006年に中活法が改正され、より包括的・総合的に特定の地域を支援して、盛り上げていこうという制度になりましたが、裏返して言うと、より選択的なのです。この市街地を発展させよう、ほかは開発を押さえようということになります。

 それに応えるように、各市町村が「是非、我が町を選択してくれ」ということを訴えて、基本計画をつくるのですが、基本計画には、明確な数値目標(人口、通行量)などをしっかり設定しろ、それも絵に描いた餅ではなくて過去がどうであり、現在がどうであるかをしっかりと調べ、こういう政策を導入すればこれだけ増えるといった明確かつ論理的な目標を書けといわれました。

 一方、都市計画で郊外の人口を抑えることも求められました。それも含めて、しっかりした基本計画ができれば、手厚い支援が貰えるという論理でした。

 結果として、90の基本計画が認定されたのですが、すべて市です。

 本のp57の表2を見て頂きたいのですが、認定都市(調べた当時は81)の人口の中央値は伊丹市の19万2000人でした。これは全市の平均値や中央値よりも高いのです。

 また、早い時期に中心市街地活性化計画が認定された市町村をみてみますと、長野市、富山市など30〜40万の県庁所在地が多くを占めています。

 なかには豊後高田や富良野のような2万人、2万5千人ぐらいの市も指定されていますが、多くの市、町村にとってはハードルが高かったのです。

 このように、選択のなかで、小さな市町村は切り捨てられてしまうのかもしれません。

富山市のコンパクトシティ政策
 では目出度く認定された市はバラ色の活性化が描けているのでしょうか。数年前に調べた富山市についてお話したいと思います。

 富山市は青森市と同時に新法にもとづいて初めて基本計画が認定されたまちです。

 路面電車やバスを串にして、それらの駅やバス停に近いところを市街地(団子)として、コンパクトなまちづくりを目ざそうというのが理念です。

 これを実現するために富山市は様々な支援を行なっています。たとえば住宅の支援一つにしても、駅から近い地域では市が支援していますが、それより遠いところでは支援しないといったことが行なわれています。

 あるいは基盤としてLRTをつくったり、それを路面電車に接続しようといったことが行なわれています。

 また富山市の政策はシステマティックで、まず調査で人口密度が40人/ha以下だと行政サービスの維持費用のコストが高くなりすぎることを明らかにしたうえで、財政にとってもコンパクト化が必要だとしています。

富山市の活性化の実際
 しかし、たとえば町なか居住について言えば、2005年の2万4000人から2014年度には2万8000人にしようという程度に過ぎません。歩行者通行量や路面電車の乗者数についても目標が掲げられています。

 そのフォローアップ調査を見ますと、人口は図のように目標の達成は難しい状況です。

 歩行者通行量はなんとかなるかもしれませんが、2005年度と比べると目標値自体がかなり低いのです。路面電車の乗車人数も苦しいでしょう。

画像se21 画像se22
 
画像se23
 
 ただ富山市の場合はあと2年ぐらいしたら北陸新幹線が開通しますので、急にあがる可能性もないとは言えません。しかし居住人口は厳しいでしょう。

 ですが、これは計画をたてたころから予測されていたこと、とも言えます。

 富山市の方にお伺いしたこともあるのですが、富山市としては基本計画は達成したいけれども、コンパクト化を目ざすというのは数十年単位で効果が出てくるような話なので、目標を達成できなくても想定外ということはないようです。

 逆に言うと、中心市街地に人がどんどん戻ってきて、開発が進んで、社会基盤整備もどんどん行われるといった熱い活性化ではなくて、むしろクールな活性化が目指されているということなのです。

 かつての賑わいは取り戻せないけれども、都市機能がそれなりに揃っている。そして豊かな生活環境を享受できる、弱者も安心して暮らせる、といったことがイメージされているのではないかと思います。

左三角前に 上三角目次へ 三角印次へ


このページへのご意見は前田

(C) by 瀬田史彦・戸田敏行・福島茂 & 学芸出版社

著者イベントページトップへ
学芸出版社ホームページへ