■県境地域における計画と組織化の経緯
県境を越えた地域づくりでは計画づくりが重要だと考えています。
県とか市町村とか国とか、そういう政策主体があって計画ができるのが一般的ですが、県境のように越境する地域の場合は政策主体自体がないということになります。
逆にいうと計画をつくることが、地域をつくることの意味と合わさってくると感じます。
初期の動き
三遠南信地域にもいろいろな計画があります。だいたい5段階にわけて、計画が展開されてきました。それを表1(p124)に示しました。
第一段階は天竜・東三河特定地域総合開発計画(昭和27年)です。
第二段階として、そこからいくつかの地域計画が起こってきます。最初は三遠南信全体を一体にしようというのではなく、近い地区を一体にしようというものでした。たとえば豊橋・浜松二眼レフ経済圏と書いていますが、浜名湖を挟んで都市圏を一体化しようというものでした。
それから山間地域を維持しようというときに、県の枠のなかではなかなか維持できないということが出てきました。そのために例えば昭和52年には、愛知、長野の県境中山間地区で医療や消防防災に取り組む協議会ができました。
その計画をフォローする組織作りも有用だったと思います。
三遠南信トライアングル構想
第三段階になると三遠南信地域全体を一体的に捉えようという動きが、広域経済団体から起こってきます。中部経済連合会では中部という視点で三遠南信をみようと提言しています。経済規模でみれば、三遠南信は製造業が全国六位、農業が全国五位というぐらいの規模がある。これは経済界にとっては魅力的なプレゼンテーションになったということです。
そして昭和60年には、三遠南信自動車道を軸とした三遠南信トライアングル構想が出ます。次に、部分的な、たとえば中山間地だけの連携ではなく、また経済団体のように経済だけで捉えるのではなく、三遠南信全体を対象に国の計画が策定されることになりました。
先ほど上からの広域連携ということがありましたが、このことで市町村、経済団体、民間の動きを含め、一つの枠組みが県境地域に作られたことになり、さまざまな活動に発展してきました。
これは理解しやすいということがあるでしょうが、飯田市と浜松市の人が、毎年、綱引きをして県境の線を決めようというイベントです。
女性の交流会も行なわれています。林業を活かしたチェンソー・アートをつくっていくということも起こっています。
それらがどのぐらい発生したのかを示したのが上の図です。
組織化が進むのと相まって情報が行き渡り、県を越える障害が減り、図のように活動数が増えています。
活動主体を見てみると、行政や経済の枠組みが整うと、市民型の連携が伸びてくるという相互作用が確認できます。
三遠南信サミット
これらを経て、県境を越えた地域づくりは第四段階に進んでいきます。
まず行政、経済、住民が一つのまとまりになろうということで、1994年からサミットが始まりました。毎年開催で17回開かれています。そこには全ての行政の首長、経済団体の長、13回からはNPOの代表の方も加わっています。そういうふうにして連携をとるようになってきています。
そうなってくると、三遠南信地域で、国からではなく自ら合意した地域づくりをやっていきたいという思いになってきます。
しかし県が分かれていますし、市町村も昔は50以上あったので、なかなか合意形成に進みがたかったのです。独自の計画に進むようになった大きな理由として市町村合併があげられます。
浜松市が大拡大し政令市になりました。これによって浜松市と豊橋市、それに飯田市も合併したので、三市が直接接するようになりました。また、いままで横並びであった市町村ですが、浜松が政令市として飛び出た形となり中心性ができました。
特に、市町村合併の次は県境を越える連携であるという意志が働いて、県境の計画に進んだのです。
その途中で、2006年に道州制案が出たとき、長野が外れており、もし道州制にするなら「同じ区割りで」と三遠南信サミットでアピールしたことがありました。市町村長が全部参加している会議で、南信州は長野県で区域をわっても三遠南信地域と一緒に歩んでいくという決議をしたことに意味がありました。
こういうところから自ら三遠南信の地域計画をつくろうということになっていったわけです。
また中部圏広域地方計画があります。これも県境を越える計画です。そのなかでの地域づくりができるということが、特に産業界にとっては納得の要因だったと思います。そういうことで第五段階として三遠南信地域連携ビジョンの策定に繋がったのです。
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