三遠南信地域の地域づくり |
そこで、もっと歴史を戻ることが重要になっています。三遠南信地域の場合は、塩の道が歴史的に重要です。
ちなみに豊橋から飯田にいく飯田線は近代の塩の道とも言えます。
このような意味づけを追っていくことが、県境を越えた地域をつくるときに重要になってきます。
青森と岩手にまたがる南部エリアは、藩制度に戻って、南部藩を意識して県境を越える地域づくりをやっています。
県とか市町村とか国とか、そういう政策主体があって計画ができるのが一般的ですが、県境のように越境する地域の場合は政策主体自体がないということになります。
逆にいうと計画をつくることが、地域をつくることの意味と合わさってくると感じます。
第一段階は天竜・東三河特定地域総合開発計画(昭和27年)です。
第二段階として、そこからいくつかの地域計画が起こってきます。最初は三遠南信全体を一体にしようというのではなく、近い地区を一体にしようというものでした。たとえば豊橋・浜松二眼レフ経済圏と書いていますが、浜名湖を挟んで都市圏を一体化しようというものでした。
それから山間地域を維持しようというときに、県の枠のなかではなかなか維持できないということが出てきました。そのために例えば昭和52年には、愛知、長野の県境中山間地区で医療や消防防災に取り組む協議会ができました。
その計画をフォローする組織作りも有用だったと思います。
そして昭和60年には、三遠南信自動車道を軸とした三遠南信トライアングル構想が出ます。次に、部分的な、たとえば中山間地だけの連携ではなく、また経済団体のように経済だけで捉えるのではなく、三遠南信全体を対象に国の計画が策定されることになりました。
先ほど上からの広域連携ということがありましたが、このことで市町村、経済団体、民間の動きを含め、一つの枠組みが県境地域に作られたことになり、さまざまな活動に発展してきました。
女性の交流会も行なわれています。林業を活かしたチェンソー・アートをつくっていくということも起こっています。
組織化が進むのと相まって情報が行き渡り、県を越える障害が減り、図のように活動数が増えています。
活動主体を見てみると、行政や経済の枠組みが整うと、市民型の連携が伸びてくるという相互作用が確認できます。
まず行政、経済、住民が一つのまとまりになろうということで、1994年からサミットが始まりました。毎年開催で17回開かれています。そこには全ての行政の首長、経済団体の長、13回からはNPOの代表の方も加わっています。そういうふうにして連携をとるようになってきています。
そうなってくると、三遠南信地域で、国からではなく自ら合意した地域づくりをやっていきたいという思いになってきます。
しかし県が分かれていますし、市町村も昔は50以上あったので、なかなか合意形成に進みがたかったのです。独自の計画に進むようになった大きな理由として市町村合併があげられます。
特に、市町村合併の次は県境を越える連携であるという意志が働いて、県境の計画に進んだのです。
その途中で、2006年に道州制案が出たとき、長野が外れており、もし道州制にするなら「同じ区割りで」と三遠南信サミットでアピールしたことがありました。市町村長が全部参加している会議で、南信州は長野県で区域をわっても三遠南信地域と一緒に歩んでいくという決議をしたことに意味がありました。
こういうところから自ら三遠南信の地域計画をつくろうということになっていったわけです。
また中部圏広域地方計画があります。これも県境を越える計画です。そのなかでの地域づくりができるということが、特に産業界にとっては納得の要因だったと思います。そういうことで第五段階として三遠南信地域連携ビジョンの策定に繋がったのです。