イタリア世界遺産物語〜人々が愛したスローなまちづくり
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批判にさらされ深化してきた世界遺産

 

 今日はイタリアの世界遺産ではなくて、イタリアが世界遺産をどう語っているかの話をします。

 イタリアでも、世界遺産は最初、誰もが知っているモニュメントや傑作が選ばれていました。

 しかし68年のパリ5月革命、イタリアでは69年の熱い秋が有名ですが、若者や労働者の体制批判が行われ、大学の権威も疑われていました。その流れが、「古代の」とか、「天才の」とか、「バロックの」とか、昔の貴族・王族の文化を国際的に登録するということで良いのか、という議論を巻き起こしていました。たとえばビートルズはどうだ、労働運動はどうだというような、サブカルチャーをどうするかが注目されていました。

 また発展途上国と文化でどう交流するかが、世界遺産で可能かが問題になります。

 従来の考え方ですと、どうしてもヨーロッパの文化遺産が中心になるのですが、それではまずいんじゃないかということで、その後90年代に、文化的景観、たとえば棚田や農村景観、廃墟になっている炭坑や製鉄所など産業遺産が登場するのです。さらに、文化的ルートや無形遺産も広がりました。

 このように世界文化遺産もこの30数年間で、大きく変化しました。

 そのなかで各国が文化遺産をどのように捉えてきたか。それは、その国の文化と文化政策の現れです。たとえばイギリスは産業遺産をとても大切にし、アピールしたわけです。

 また誰が何を選んでいるのかに、歴史、宗教、国民文化への現代の国情、市民の文化意識がよく反映されています。

 今日、たまたま堺市の副市長さんと会っていました。堺市は仁徳天皇陵を含む百舌鳥古墳群・古市古墳群を世界遺産に押しているのですが、では、どう説明するのかです。天皇陵だから貴いということを朗々と言うのか。それにたいして中国や韓国がどういう反応をするかを考えているのか。また今、国民にとって天皇陵がどういう意味があるかを考えているかと聞いたわけです。

 そのことをクリアにしないかぎり、世界遺産委員会で、これがこの国の文化だということを説明するのはとても難しい。

 なぜなら、文化遺産の捉え方は、戦後の民主主義、また60年代末の変革の時代を経て、市民社会をどう成熟させ、サブカルチャーをどう発展させたかの現れでもあるからです。また古典と現代アートの関係をどう捉えているかという問題でもあるのです。

 ではここから、こうした世界遺産の変遷を少し詳しく説明します。

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(C) by 宗田好史 & 学芸出版社

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