最初の10年間はピラミッドの時代。イタリアなら「最後の晩餐」など、誰もが知っているものが登録されましたが、300ほどでネタが尽きました。
その時点で、次の点が問題になっていました。
この文化的景観の嚆矢はニュージーランドのトンガリロ国立公園、自然遺産に文化をくわえ複合遺産にした登録でした。
これは、何かというと森です。どこが文化なのかというと、マオリ族の人たちがここで祈りを捧げていたというのです。
これについては、世界遺産委員会で語り継がれている有名なやりとりがあります。
「祈りですか。で、建物はなにか残っていますか? 何もありません。……じゃあ、鳥居のような何かシンボリックなモニュメントは? 何もありません。……石はどうですか、輪のように並べられた石とか? 何もありません。……じゃあ、せめて木はないですか? ありません。……じゃあ、どこで祈っていたんですか? それは分かりません。……祈っていたということを、どう証明できるんですか? そういう伝承はあります。でも書いたものはありません。マオリ族は文字というものを持っていません」。
そこまで言われ、これを否定してしまったらマオリ族には文化がなかったということになってしまいます。人間がいるかぎり、文化があるだろう。だったら、かれらが伝え、かれらがこの場所をそういうふうに思っているんだったら認めましょう、となりました。
「しめた。そういう考え方、好き」と世界中が言い出して、この文化的景観を突破口に文化的多様性を広げていきましょうということになったのです。
ここで、産業遺産に熱心なイギリスが訴えたかったのは、彼らが技術によってどういう過ちを犯して、その過ちをどう克服して今日の福祉社会をつくったかということです。
だから産業革命のとき、ここで石炭を掘っていたときは、すごいスモッグだった。すごい数の結核患者が生まれた。子どもはどうだった、アル中がどうだっと語り、そのために、ここに病院をつくり、ここに学校をつくりといったことを延々としゃべるのです。
まさにこのことで民主主義が、そして社会保障が進んできたという裏の意味からすると、これは凄い。
その過ちをどう克服するか。あるいは20世紀に蔓延した合理主義建築をどう普及するか【どう評価するか?ですか。これからさらにああいう建築を広めたい?】が大きなテーマとして取り上げられました。
だからコルビジェの建築が、シリーズで登録されるだろうと言われています。
その結果、イタリアのように一年に10箇所もまとめて出してくるところも出てきて、こんなスピードで増え続けて良いのかという議論になりました。
その結果2000年ごろから、「暫定リストの活用(推薦数の上限、優先順位の明確化)」「審査対象の2つまで(自然・文化を一つずつ)」「新規登録自粛問題、シーリング問題」「次期中期計画の策定と定期報告提出義務・検証((モニタリング)実施」といったことが議論になりました。
ただ、世界遺産委員会のトップは今はイタリア人なので、シーリングの議論は避けられているように見えます。しかし推薦できるのは各遺産、年1つとなり、また登録したあとのマネージメントへも関心が向けられています。
またイコモスは、文化遺産をなぜ保存しなければならないかを説明するために、真剣に議論しています。そこで「1)文化遺産は、その保存の必要性が地域住民に十分理解され、将来にわたり、その持続が可能となる地域社会の仕組みが整い、その仕組みは、同時に地域の発展にとっても適切な方法であることが、行政と民間の将来計画の上で示されるべきである」としています。
たとえば京都でも昔は開発か保存かという対立構造の議論がありました。今は、京都市は景観や町家を保全していくことが、京都の発展であると朗々とうたっています。
ほんとかよ、と思われるかもしれませんが、今、保全が経済発展を阻害すると人前で言える人はいなくなりました。そうならないから。そうならないことが証明されているからです。
そしてイコモスは「2)文化遺産の保存・管理と地域経済とが、バランスのとれた関係にあることで、文化遺産は、その地域の“社会・経済の発展及び住民の生活の質の向上”に貢献し続ける」と主張し、さらに「3)そこに住んでいる住民の生活の質は文化遺産の質そのものである」というところまでブタペスト宣言(2002年)で言っています。
だから開発か保存かという論争をやっているところは、まだ発展途上にある、まだ文化政策が十分に行われていない国なんです。文化政策が進化し、いわゆる20世紀型の開発モデルから、21世紀型の創造都市や、スローシティ、スローライフの価値観に転換したところでは、この考え方が出来ている筈です。
世界遺産の1期〜3期
世界遺産登録件数の推移(ユネスコ資料より宗田グラフ化)
■第1期
世界遺産条約は1972年に結ばれ、登録は1978年から始まりました。
1)欧州の教会建築や都市、城塞等の同種カテゴリーの遺産が多く、世界の多様な文化を反映していない。
2)文化遺産が多く、自然遺産が少ない(2010年現在、145カ国から合計878件の内、文化遺産679、自然遺産174、両方を満たす複合遺産25)。
加えて文化遺産はヨーロッパに、自然遺産はアフリカ、アメリカ、オセアニアにという地域的偏りがある。
3)遺産全体でも、ヨーロッパに多く、アジア・アフリカに少ないという地域間の不均衡がる。
この点、その後ユネスコの努力は続き、今日でも一部の国から出てくる候補には首を傾けたくなるものもありますが、世界平和のために文化を通じて交流していこう、心のなかに平和の砦をつくろうというユネスコとしては、この偏りを見逃せなかったのです。
■第2期
そこで出てきたのが1994年のグローバル・ストラテジーです。新たに出てきた考え方は次のものでした。
1)文化的景観:文化と自然の中間的存在/人類と地球との共生。
2)産業遺産:人類の科学技術の発展と産業活動の進展の成果を例証するもの。
3)20世紀の建築:新しい時代の資産の代表。
文化的景観
まず、文化的景観です。よく知られているのは棚田ですね。産業遺産
これは、それぞれの国が産業革命とどう向き合って来たかを問うものです。産業革命の結果、悲惨なまでの貧富の差の拡大、公害、労働争議、そして様々な都市型の病気が起こりました。これをどう克服してきたかということが大事だ。これで今日の国民文化が決まるんだから、とことんやりましょう、となったのです。決して、この発明が凄いというだけの話ではないのです。20世紀の建築
原爆ドームが登録されたことでもわかるように、20世紀は誤ちの連続でした。
■第3期
このような議論を踏まえ、第二期では多くの遺産が登録されました。
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