「まちづくりコーディネーター」セミナー記録
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地元の若い人が残れるようになってこそ、まちづくりでは

 

井岡

 朝倉さんの報告を聞いて、まちづくりとはこの程度しか考えていないのかとがっかりしました。

 小野郷は行ったことはないですが、奈良の同じような場所から推測すると、中世以来の共同体が残っていると思うのです。そういう部分を活性化しないかぎり、僕は地域づくりはありえないと思いますが、お話しのなかに出てこなかった。

 また、地域を地域として残していくには、地元に若い人を残していくことが大事だと思うんですね。若い学生さんが地域にいって刺激しているという話でしたが、それは点滴で栄養剤を入れて瀕死の病人を生かしているようなもので、地元の若い人たちが地元で生きていけるようなシステムを考えていくということが、まちづくりじゃないかと思います。

 確かに、とても不便なところなら、若い人に残れとは言えませんが、小野郷なんて車で京都まで数十分という京都の通勤圏じゃないですか。若い人の3割や4割は残っても不思議はないところです。残ってもらって地域を続けていくということが必要なんじゃないか。佛教大学の学生さんが関心を失った途端に失敗におわるようなプロジェクトじゃないかと思います。

リム

 どうも有り難うございます。私よりはっきり言われる方がいました。

朝倉

 その点は私も不思議に思っていました。いい人ばかりだし、良いところだし、便利なのですから、なぜ若い人が残らないのだろう。私たちだって車で通えるのですから。

 歴史のある地域には、外のものには見えない古い社会構造があります。「第三者が担保する」と書きましたが、それは地域でさまざまな意見を自由に言える関係づくり、意思決定のあり方をなんとかしたいという思いから書いたものです。その意味でも、地域外の者がまちづくりに関わり続けるのは大事なことです。それは地域の中からは変えられないからです。

 そういう地域構造をどう変えていくかというときに、行政から持ち込んだ事業であっても、ワークショップを取り入れたり、若い人や女性の方にもまちづくり委員会に入ってもらったり、どんどん進めていって、これまでとは違う面も出てきていると思います。若者が戻ってくるためにも、地域で自由に物が言えるように変えていくのは大きなテーマだと思います。

 また地域で暮らし続けるためには、人間関係だけでなく産業も必要です。都市部に通えることは通えますが、地場で何かできないかということで、地元ならではの料理を売ることから始めて、次には休耕田を活用したお米をPRを兼ねて販売し、それがまちづくりの資金になるという大きな循環する仕組みを考えようという話は、地元の中から出てきています。それを形にするのは我われの仕事だと思っています。

リム

 今のお話しは指摘されたことをオウム返しに言っているだけじゃないですか。そこから先が何なのかを聞かれたんじゃないんですか。

 地元コミュニティは、そんな優しい人ばかりじゃなくて、意地悪するでしょ。そこで何をしたら若者がくるのか? たとえば、100坪、500万円で住める家を建設業者の人と組んで若者に提供して、仕事も提供する。そうすることではじめて住めるでしょう。今のように、そうですね、若者が住めない状況では良くないですね、で終わっていて良いんですか?
朝倉

 そういう状況を変えるために入っていって・・・
リム

 入っていて、どう変えたんですか。

朝倉

 だから、一部の人がすべてを決めてしまうのではなく、当たり前のことを当たり前に言えるように、少しずつ変えていくようにしています。そのことで参加してくれる人が徐々に増えてくる。

リム

 そういう方法でやっていって、若者が住めるようになるまで何十年かかるんですか?。

朝倉

 うまくいっている事例があったら、是非、教えていただきたい。

井岡

 外部の刺激があるということは大事だし、朝倉さんは立派にやっておられると思いますが、結果として北山杉のプランターとか、餅米づくりを佛教大学の学園祭で売ったというのでは情けないじゃないですか。せめて観光客が押し寄せていくような仕組みであるとか、あれだけの山林と田んぼがあるんだから、何かできないのかとか、そういうことが考えられないとダメなんです。

 私は奈良県のことしかわかりませんが、奈良県の農山村で経験することですが、中世以来の共同体をつくっているような人たちは、本当のことは朝倉さんには言っていないんですよ。

 奈良県で部落問題を研究しているのですが、共同体は暖かくて、かつ冷たく厳しくえげつない存在なんです。そこまで分かった上で活性化を考えなければいけないんだということを言いたくて申し上げた訳です。

リム

 2、3日前に横浜中華街がなぜ繁栄したかという本を読んだのですが、あそこは半径500mぐらいのところに年間500万人の人がきて、中華レストランにお金を落とすのだそうです。その横浜中華街が観光のメッカになったのは1970年以降とのことです。それ以前はスラムなんです。つまり、誰かがそれを仕掛けたことで、錬金したんです。

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