土木を造り上げるには、 実に多くの、 そして、 様々の主体が関わるのであるが、 その中で特に困るのは、 役割としての主体(たとえば、 意志決定者、 発注者、 プランナー、 デザイナーなど)が一体的ではないことである。 発注者である官側の役人はプロジェクトが完成するまでに何人も替わる。 そして、 プロジェクトの計画・デザインは、 そのプロセスの様々な段階で、 分割的、 独立、 個々に発注されることもあって、 受託する側のプランナー、 デザイナーも多くの人が関わる。 そして、 人が替わる度に、 引継が必ずしもうまく行かず、 継承に支障を生じ、 さらに、 引継以後ではまったく異なる考えで遂行されることさえなくはない。 主体一体の原則が貫かれないのである。 例(i)は、 その例でもある。 工事事務所の所長が替わるとその好みで護岸のデザインが変わるのだという話を聞いたことがあるが、 その話が本当だとすれば、 由々しきことと言える。 また、 例(V)も、 まさしく主体の一体性が欠ける例である。
いろいろな点で同等と考えられる複数の関係主体が、 個々の利害でそれぞれに動くという点で主体の統合性が欠けるためにまずいことが起きる。 その例が例(iii)であり例(iv)である。 前者では、 個々の自治体がそれぞれの論理で動くためにそうなる。 住民の反対があってということとは、 次元が異なる話であろう。 仮に、 ルート変更に関係する自治体が一つであったとすればこの話は起きなかったはずである。 主体の統合がなされていれば(必ずしも一つの自治体にまとまっていればということではなく、 高速道路の景観計画という点で関係する全ての自治体が同じ基盤に立ち、 同じ論理を有していれば、 「一体」であれば)こうはならなかったのではないか。 例(iv)は、 これもよくある話で、 縦割り行政の弊害であり、 管理者が異なるとこうなることが多々ある。 これらの点の解決は緊要の課題である。
また、 計画・デザインの実際的業務は受託側主体が行うにしても、 意志決定権は実施側主体にあるので、 明確にプランナー、 デザイナーとしての職能が確立している状況にあるとは言えないことが問題である。 第三者的判断主体が入る余地(というより積極的に介入した方がよい場面、 「協働」が必要な場面とも言える)が生じる一つの理由となっている。
もう少し別の要因を考えると、 前述した「主体の一体性」の問題があり、 どのような組織、 制度、 体制とプロセスをもって土木のプロジェクトを遂行するかは、 極めて重要である。
なお、 こうした点に関連して、 柴山・國島20)の議論は参考になろう。
まず、 一般的に、 どのような土木技術者が必要であるかを考えると、 大別して以下のようになる。
これまで、 土木技術者は、 これらの全てに対応できていたわけではない。 たとえば、 行政側にいる者は、 プロデューサ、 ディレクタとしての役割を主として果たし、 建設コンサルタントは、 プランナーであったろう。 しかし、 デザイナーとして働いたものはいるのであろうか。 また、 デザイン面が重要な位置を占めるプロジェクトの実施において、 さまざまな立場の主体や複数のプランナー、 デザイナーをまとめ、 周辺の調整を行って目標の実現にいたらせるコーディネータの役割を担っている者を実施側主体、 受託者側主体の中に見出せるであろうか。 また、 土木技術者かつデザイナー(デザイナー・エンジニア)であるような者がいるであろうか(土木技術者が否応なくデザイナーとしての役割を果たさざるを得ない場合は多々あるのであるが)。
こうした状況の中で、 土木技術者はデザインにどう関わるべきかが問題である。 土木技術者は、 現在では通常の場合、 デザイナー(意匠設計者)としての役割を果たすだけの技術力、 能力をもっていない。 しかし、 デザインや景観が問題になり、 意志決定を迫られる場合は多々ある。 そこで、 無理にでも自分でやるか、 施工業者やメーカーに任せるといったことになり、 結果的に、 責任あるデザインをしないという場合が多い。
ところで、 山本は、 前述した論文12)の中で『最近の土木構造物が形の美しさを求めるために、 美的感覚にすぐれていそうな局外者に依存するような傾向があるとすれば、 それは大きな間違いである。 土木技術者は建設物の美しさを含めた意味での新しい環境造成という、 自分の職能に対する意識を育てさえすればよいのである。 』とも述べている。 そうする必要があるのは確かであるが、 それだけで済むほど、 デザインは簡単なものではないと筆者は考える。 それでは、 どうするべきであろうか。 ひとつには、 後述するように、 デザイナーまたはデザインに関わるプロジェクト等をこなせるプロデューサ、 ディレクタ、 コーディネータたり得るべく教育・訓練を受け、 あるいは、 自己啓発をつづけることである。 そして、 今ひとつは、 デザイナーとの「協働」である。
ただし、 現状では、 デザイナーの側に問題なしとは言えない。 景観設計家、 アーバン・デザイナー、 環境デザイナーは数多くいるわけではない。 そこである場合には、 建築家その他のデザイナーに頼ることになるが、 このとき気をつけなければならないことは、 彼らが環境デザイン、 土木デザインに不慣れなために、 前述した「初期アーバンデザインの誤り」と同じ過ちを犯したり、 土木デザインのあるべき姿をはき違えたりすることである。 また、 少数の環境デザイナーが、 日本全国到るところのデザインを担当し、 結果として「どこかでみた景色」があちこちに現れたり、 場所と全く無関係なデザインなされるような事態も生じる可能性がある。 地元のデザイナーを登用すれば、 こうした弊害を少なくすることはできるかもしれないが、 どちらにしても、 コーディネータ、 第三者的判断主体の必要があるだろう。
デザイナー側の問題が解決したとしても、 「協働」のための体制、 システムを整備しておく必要がある。 土木側・デザイナー側の間のコミュニケーションの問題、 著作権の問題、 制作者の「名前」の問題、 報酬の問題、 意志決定方法の問題、 等々解決すべき点は多い。
それにしても、 今活躍している土木技術者が、 景観やデザインに関わるプランナーとしてならまだしも、 デザイナーとして一人前になることはそう簡単なことではない。 したがって、 やはり、 デザイナーに委嘱したり、 アドバイザーに頼る必要が出て来る。 小規模、 単純なプロジェクトの場合でもそうした方がよい。
そうすると、 いずれにせよ、 土木技術者は、 プロデューサ、 ディレクタ、 コーディネータとしての役割を果たさなければならず、 そのためには、 デザインを吟味・チェックし、 デザイニングを監督、 差配できるだけの教育、 訓練を受け、 経験を積まなければならない。 この時重要であるのは、 自己啓発、 自己訓練である。 環境づくりに携わる者の責務として美的側面を配慮しなければならないことを認識し、 常に意識的にその面からものを見ること、 そして、 考え、 解釈し、 判断することを通じて自らを鍛錬するのである。
この第三者的判断主体が、 最もその役割を発揮するのは、 制度的な保証を得て、 プロジェクトの構想・計画から実施まで一貫してコーディネータ、 アドバイザーなどとして関わる場合である。 前述した「主体の一体性」の保持は、 土木プロジェクトの遂行においては構造的に困難であって、 これを補完(保障)できるのは、 この種の専門家(その身分や立場などは比較的安定していよう、 また、 一部の立場に偏しない判断が期待できよう)であるからである。
なお付言しておくが、 この主体の存在により、 デザイナーの地位が結果として不当に低くなるようなことは避けなければならない。
キーワード集において、 独自の立場から「造」について触れているのは、 河本(『持続するシステム』)、 久(『きわ』)、 大山(『不調和なデザイン』)、 西(『土木の風景づくり』)などであり、 この側面が重視される必要があることを示唆している。