アイデンティティというものがございますが、 一般に「アイデンティティ」を辞書でひきますと「自己同一性」とあります。
まず自己というものを認識しておき、 その自己の中がわりと一様で、 同一性があって、 その中に一貫性があると、 非常にアイデンティティというものがはっきりするというものです。
だいたいが西洋の概念ですのでそういうものになってくるのですが、 そうなると、 隣で自己のはっきりしている人がいると、 そのあいだで「相違性」がでてくる。
どうやらアイデンティティがはっきりすると、 「相違性」が結果としてでてくるようです。
「相違性」は、 アイデンティティの特性の中でも、 商業主義の中ではテーマパークとして取り上げられるなど、 一番商業ベースに乗りやすいものです。
そして多分、 アイデンティティの中の「同一性」であるとか「一貫性」であるとかは商業ベースにはなりにくい。
まちづくりの中でも一番商業ベースになりやすいのは「他と違う」ことだということになっており、 あらゆるところで「アイデンティティが他者と違う」というところを商業ベースに取り上げるという手法がよく行われてきたわけですが、 結果として他のものを排除してきてしまっていたという、 さっきのレルフ氏の批判にも繋がって行くことになります。
ここで、 その相違性はオリジナルの相違によって生じるほうが存在感があるものであることを考えると、 アイデンティティは根元においてどこか「オリジナル」でなければなりません。
その「オリジナル」をどこに求めるかというと、 土地に求める、 歴史に求める、 色々な日常の生活に求める、 という3つが基本的にありますが、 土地や歴史に求めるというのは、 だいたい言い尽くされているうえに、 現実にはその2つのみを現代の都市に適用するには、 非常に難しい部分があります。
むしろ、 その両方をベースに持ちながら、 日常の生活に求めることでその性格がときどき土地を向くか歴史を向くかそれは生活者である市民が選ぶ結果であるというのが、 結構近年では浮上してきていますし、 今日のシンポジウムの中で相当出てくると思われます。
レルフ氏の言葉でいえば、 『場所という「位置」が存在し、 その「位置」というのは一点しかなく、 別のところには別の「位置」があって、 「位置」を持つということが大きな手がかりであり、 自立性であり、 それが一つであるから価値がある』という話になってきます。
例えば「オリジナル」があってもたまたま似たものが他にあると、 その価値は完全に減少するというようなことなのです。
そういったように、 「唯一性」というものは最後の手がかりであるという感じがします。
この「唯一性」はどちらかと言えば空間的なものですが、 同じようなもので時間的なものとして「一回性」があります。
つまりレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」の絵はルーブルにあるときが一番で、 それをデパートに持ってきても価値が下がります。
又、 「最後の晩餐」もミラノの教会の薄暗い所にある時に最も存在感があり、 工事中にその一部を国外に持ち出して展示しても価値がなくなります。
同じように時間的なものでいうと、 最高の演奏というのはあの瞬間でしかなかったという例で分かると思います。
「唯一性」と、 「一回性」というものが最後のアイデンティティの手がかりとして存在し、 また両者は時間的・空間的に重なってくるものではないかと思うわけです。
例えばそれは、 一品一村運動をして光を放った理由だとも思うのですが、 一品一村というものは、 そこに一品しかなく、 それがオリジナリティを持ってそれが唯一のものであるときに、 生き残っていきました。
あとは多く敗退していった過程がそれを示しているのではないかと思います。
このような話をどの方にお話ししていただこうかと考えたときに世界中を見渡すと、 右に和辻哲郎の後継者ともいわれているオーギュスタン・ベルク氏という文化論的な風土論の大家、 また一方で、 左に今日来ていただいたレルフ氏とかイーハトーン氏など地理学的な土地に根ざした風土論人文学者としての旗手がうかびました。
本当は両方を呼んでお話をうかがいたいところでありましたが、 レルフさんのスケジュールが合いまして今回きていただき、 非常に有意義なお話をいただいたわけであります。
一方で、 わたくしはベルクさんの話も聞きたいとも思いまして、 このあいだお願いしてパリで一時間お話を聞かせていただきました。
その時ベルクさんが、 『西田幾太郎の場所の論理というのを呼んだことがありますか、 この一行を読んで見ませんか』と言われ、 ハイデッガーの言葉で「アイデンティティのない空間は場所ではない」という前提を示してくださいました。
そしてその一方で、 『デカルトが同じ様な意味で、 「場所というものは根元的にアイデンティティを持っている」とは言ってるが、 一方で「個人が自足するべきだ」いうのを一所懸命奨励しすぎ、 場所とかかわらない個人というものを、 デカルトは浮上させすぎたのだろう』と、 彼はデカルトを批判しています。
『それに対して西田幾太郎は、 主体が場所に没入するということを書いており、 これを西洋的にあてはめれば「無意識」に近いものにあたる。
日本人はその無意識の中で生きることができ、 主体がいつのまにか場所に没入する。
そういう意味で主体と場所との関係をデカルト的な関係と西田幾太郎的な関係との違いで表しながら、 その中間に位置するところをとりたい』『たまには主体が場所に没入するけれども、 没入しきってはいけない。
無意識ではいけない』つまり、 『すごく「意識」しすぎることと「無意識」であることとの中間の位置に自己をおくことによって、 いわゆる近代以前は「無意識」、 近代は「意識」の世界であり、 非常に自己を確立しすぎたからその中間の世界を作ることが、 現在言われているポストモダンではなく、 本当の意味でのモダンを越えることではないのかと思う』とベルク氏は言っておられました。
今日のレルフ氏の話も、 非常にこれと共通する部分を私は感じるわけです。
そういうことも含めて、 いずれにしても「まち」なり地域なり場所なりはアイデンティティを厳然と持っていると考えられるわけです。