現代は、 場所の個性、 地域の個性というものが喪失して、 時代の個性というものに統合されつつある時代ではないかと思います。
それは地域区分というものが急速に変わってきているということです。
ワークショップの方のお話にもありましたが、 「地域」というものを空間的にどのような範囲でとらえるかということは非常に難しい問題です。
地域区分というものは、 例えばエドワード・サイードが触れているように、 「人為的に人間が創り出したもの」であるわけです。
したがいまして、 その区分にどのような意味を求めるかということによって、 地域区分、 あるいは地理的な区分というものは変わってきます。
歴史的な意味においても変わってきますから、 当然その空間的範囲というものも変わってきます。
例えば京都の町にしても、 平安京から続いている部分と、 明治あるいは大正以降に町として発展した部分も一括して今京都という行政区分でとらえようとすると、 そこで非常に難しい問題が出てくるということで説明できると思います。
そういった行政区分というもので町をとらえて、 そこに何か物的な共通性を求めるということは実際的ではないわけです。
例えばそういうふうに町をとらえた時にその空間区分というものが意識される指標となるものは多分、 税金が高いか安いか、 あるいは行政のサービス水準がどうであるかとか、 あるいは市内通話で通じる範囲かどうか、 というようなことでしょう。
行政区分という空間範囲が物理的に特定の外観としてとらえられるということは考えられないような状況にあるわけです。
そしてその背景の一つには地域を造り出してきた求心力というものが今、 急速に変わってきているということがあげられます。
例えば建築材料をとっても、 トタン板というエレメントがありますが、 これはおそらく最も世界中のいろいろなところで使われている建築材料の一つでしょう。
これは非常にローテクな、 要するに素人が日曜大工的に使って、 ある一定の性能を持ったシェルターが創れるという、 ある意味では非常に優れた材料であります。
そういったものは決してローテクな庭先やあるいは物置きの中で生産できるものではなくて、 それなりの技術力と生産設備と、 それを可能にする資本力というものを持たないと、 そのようなものは作れないわけです。
そのようなある意味ではハイテクの産物であり、 それぞれの地域的な文脈を越えて非常にローテクな使い方ができるというようなものが、 今世界中に広がりつつあります。
そのようなことによって、 地域の特性を造り出してきた地場の素材や歴史的な工法、 例えば茅葺きであるとか、 あるいは椰子の葉で葺いていたとかというものが駆逐されていっています。
しかし一方では、 例えばトタン葺の時代といったような時代の個性を持った風景というものが今グローバルに生み出されつつあるのではないか、 そのようなことを都市を考える一つの背景として見てみたいということです。