JUDI関西 「ランドスケープにおけるらしさ」 by 上野泰
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3 グローバル性への統合と
私性への拡散

 その次にグローバル性への統合ということと、 私性への拡散ということです。

グローバル性への統合の背景には、 巨大パワーというものの介在があります。

その反面、 一方では地域というタガが外れたことによって、 私たちそれぞれの生活者がそれぞれの好みによって、 例えば上物、 つまり建物を建てていくといったことになっています。

その限りない私性への拡散というベクトルが現代のもう一つの特徴ではないかと思います。

それは今や家族という単位ではなく、 おそらく個人個人にまでその私への拡散というものは起こりつつあり、 そういった私性が、 今、 例えばインターネットに現れているように、 国とか地域とかといったものを介さないでいきなりグローバルなものに直接面するということが、 これからの姿になっていくように思われます。

   

 そのような背景を考えたとき、 私たちの環境の問題が「らしさ」あるいは「アイデンティティ」といったことにどのように関わってくるかということなのですが、 今一番問題なのは、 そういった変化が見慣れたもの、 あるいはなれ親しんでいたものを、 急速に身のまわりから失わせていくという状況をつくり出しているということです。

私たち人間に限らず生物というものは、 学習によって、 環境とのやりとりの中でそれぞれの環境像というものを創り出していっているわけです。

そのような環境像が急速な変化の中で失われていくことで、 一種の心の拠所を失っていっているわけです。

   

 例えば町でいえば、 今までそれぞれに伝統的な建築形態、 お寺さんはお寺さんらしく、 教会は教会らしく、 あるいは駅は駅らしくというような「らしい」形態を持っていたものが、 急速に見慣れないものに置き換わっていくということによって、 町を読み取ることができなくなっていくということが起きています。

それによって、 町が「勝手のわかった」自分に居心地の良い場所から見慣れないものに埋め尽くされた、 非常に住み心地の悪いところに変わりつつあるということが起きています。

   

 大きくいえば、 現代はそのことによって程度の差こそあれ、 地球上のほとんどの人たちが、 そういった急速な環境の変化によって心の傷を負っている時代になりつつあるのではないかとも思えます。

それが今一番大きな問題ではないでしょうか。

   

 人類学者の岩田慶治さんが著書(「生と死の人類学」講談社1985)の中で旅についてこのような話をしています。

旅というのは出発点に戻ってくるというところに意味があるのではないか、 出発点に戻ってくることによって、 まわりの世界の中で、 どういうところに自分があるかということを発見する、 そこに意味があるのではないか、 またそれによって自分を見つめなおし、 自分の「アイデンテイテイ」を発見するのだ、 というようなことをいっておられました。

やはり町についても同様であろうと思います。

   

 自分の戻ってくるべき「ところ」、 自分が戻ってきた「ところ」、 西田幾太郎の言葉でいえば、 「主体が没入できる場所」というのがその人のアイデンティティを見出せる場所なのではないかという視点が、 今必要なのではないかと思います。

   

 そうゆうふうなな場所というものは我々が体験の中から創り出していく物でありますが、 それは「らしさ」という概念と結びついております。

そして、 「らしさ」というのはある対象に対するテキストが前提となっているのです。

われわれは対象がそのテキストに合っている場合、 「らしい」と判断し、 合っていない場合「らしくない」と判断をします。

例えば「男らしい」「女らしい」というのは、 それぞれが持っている自分のテキストにそれが合っているかどうかということによって判断されており、 どちらにも当てはまらない場合は「男か女か分からない」というようないい方になってくるというようなことです。

   

 われわれはまったく未知の対象に対する「らしさ」を持つことはできません。

「らしさ」とは、 その対象について、 正確さは別として「知っている」ということが前提となります。

「見慣れた」「見知った」あるいは「聞いたことがある」といった対象に関わる何らかの情報なしには「らしさ」を構築することはできません。

そのことは対象との何らかの関係の繰り返し、 継続という状況を示しています。

そして、 環境についていうならば、 ある種の「らしさ」を持つ場所とは、 その場所が「勝手知った」安心して身を置ける場所であることを示しているのです。

そこに、 町づくりにおける「らしさ」の重要性があると思います。

   

 我々にとって、 肯定的な「らしさ」を持つ場所は、 理解可能であり、 安心感をもたらし、 その場所との「一体感」を持てる場所であり、 反対に肯定的な「らしさ」を持たない場所は、 理解しがたく、 「違和感」「疎外感」を与える場所と言えます。

「らしさ」はしばしば生活者にとって、 心の拠り所であり、 「らしさ」を失うことはその拠り所を失うことにもなるのです。

今日の都市における、 こうした「らしさ」の崩壊が、 都市を理解しがたく、 違和感、 不安感に満ちた「よそよそしいもの」にしているといってよいでしょう。

   

 そうした「らしさ」というものは、 判断をする主体によって変わってくるのですが、 先ほど申しましたように、 我々の都市の状況というのは、 一方では個への拡散、 私性への拡散という状況になっており、 町によせる「らしさ」というものはそれぞれの主体の数だけ拡散してきているということになろうかと思います。

そこでやはり、 「共有できるテキスト」というものを持たない限り、 少なくとも様々な人たちが共生する場としての「町」というものを論ずる場合には、 問題が解決できなくなってくるのではないかと思います。

   

 それぞれの個人の「すみか」というテキストであれば、 それぞれ個々の「らしさ」でいいわけですけれども、 少なくとも人の寄り集まる「町」というものを考えていくことになると、 やはり「共有できるテキスト」というものをこれからどのように構築してゆくかということが、 都市を再び勝手知った「らしさ」を持った場所へ取り戻すための大きな課題となると思います。

   

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