それと比べると日本の都市のアイデンティティは極めて弱い。
一般にそういわれているわけですけれども、 私はここで、 ちょっとひねった考え方します。
イタリアの都市にアイデンティティがあるというのだったら、 同じぐらい日本にもあると思います。
日本の駅前に行くとみんな同じ顔をしているではないか、 駅前広場があって、 それから商店街があってと、 それから銀行があったり、 ちょっと大きな街に行くとスーパーマーケットがあったり、 それもだいたいみんなダイエーだったり、 それで百貨店があったりと、 みんな同じ顔をしてるということをいいますが、 それじゃあイタリアの街に行ったらどうか。
イタリアのセンター、 チェントロといいますが、 チェントロに行きましたらシエナでもフィレンツェでも大聖堂の教会があって、 広場があって、 市庁舎があって、 広場があって、 赤い屋根瓦があってと、 みんな一緒じゃないか、 どこが違うかというようなことになると私は思うんです。
こういう見方では街のアイデンティティは見えてきません。
ところが、 もう少し見ていきますと、 自然の条件、 例えばシエナの街だと坂道の街じゃないか、 フィレンツェだと平べったいじゃないか、 川もあるじゃないか。
そういう条件はもちろん違ってきます。
それから、 更にシエナは煉瓦でできた街ですが、 フィレンツェは石でできた街です。
ピエトラセレーナというのが主に使われるんですが、 そういう街である。
それから一般的にシエナの美術というのは、 シエナ派といわれて非常に絵画的で街にもそれを感じますけれども、 フィレンツェの街だとそれが非常に立体的、 いわゆる彫刻的といいますか、 そういう街になってくるじゃないかなと、 そういう違いがいろいろ出てきます。
見れば見るほど違いは確かに出てきます。
それじゃ日本の駅前はどうだ。
私達はたくさん再開発事業をやりました。
これはよく批判される。
アイデンティティがない代表だといわれるのが駅前再開発事業なんですけれども、 みんな同じ顔しているじゃないかといわれます。
しかし、 もひとつ深読みをしてほしい。
南側は既に終わっています。
北側を今やっている。
そこでつくられる38階建ての超高層住宅が吹田市のアイデンティを表現していると私は思います。
吹田ってのは都市計画の先進都市だという自負が非常にあるんです。
駅の南と北と両方再開発事業をやった。
それも非常にごちゃごちゃした商店街をクリアーしてやったということでは全国でも数少ない例と言えます。
それに、 江坂の区画整理事業をやって、 事前にスプロールを押えてああいう賑やかな街をつくったという自負心がありまして、 都市計画というものは吹田が大阪府下で一番進んでいると、 少なくとも行政の方は思っているのじゃないでしょうか。
超高層は実はそのシンボルだと思います。
それまであの事業はやろうかやるまいかと大変悩んでいたのですが、 超高層でいこうとなったとたんに、 ばっと話がまとまりました。
北摂で最初に超高層を建てるということで関係者全員の意向が一致して出来たんです。
つまり、 吹田市のアイデンティティはそこに固まりました。
吹田がやってきた今までの都市計画事業の記念碑なんです。
これは非常に卑近な例ですが、 良く見ると日本にもそれぞれの街にイタリアに劣らぬアイデンティティというものが実はあるということを僕はここで言いたいのです。
京都のワークショップで山崎先生がベルクの言葉を借りて、 「人の眼差しの中に文化がある」というようなことをおっしゃってられたんですが、 この言葉を借りますと、 「人の眼差しの中にアイデンティティはある」と、 つまりアイデンティティというものは、 その気になって見なきゃ絶対に「ない」ものであって、 その気になって見れば「ある」ということです。
それが「ない」と言うのはその「ない」と言う人自身が問題なんであって、 それは街の問題ではないんじゃないか。
そういうアイデンティティを見る眼差しというものが、 むしろ我々に要求されているということを申し上げたい。