JUDI関西 「アイデンティティとまちづくり」
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ランドスケープデザインの立場から

鳳コンサルタント

佐々木葉二

顔写真

 トップバッターで、 何からしゃべっていいのか非常に難しいのですが、 その前に、 この前発表されました井口さんと上野さんの討論は、 去年のシンポジウムでもお二人でやられたのですが、 去年よりずっと面白かったと思います。

それはお二人の個性がシンプルに出て設計アプローチの方法論が、 全く違ったからでしょう。

ところで、 私自身は、 ランドスケープデザインという具体的な空間づくりの立場から、 アイデンティティについての考え方を述べたいと思います。

   

アイデンティティの捉え方

 一般的には、 アイデンティティには捉え方に個人差があります。

これは、 様々な角度から本日も各先生方が話されたと思いますが、 私自身のわけ方からいうと、 五つぐらいに分かれます。

第一には個人差により視点に差があります。

例えばそのまちに住んでいる人の視点と外部からまちを観る人、 すなわち、 内観する風景か外観する風景かということで違います。

   

 2番目には、 立場による個人差があります。

ここにおられる皆さんは、 企業の方とか先生方とかコンサルの方ですが、 主婦や、 子供さん、 お医者さんや、 サラリーマンとか、 みんなその立場からアイデンティティのとらえ方が違うんです。

   

 3番目は、 スケールによるアイデンティティの差もあります。

空間の一部分をとらえたアイデンティティもありますし、 山や川という大きなスケールによるアイデンティティの捉え方もあります。

四番目には、 まちと関わる空間体験の密度による差があります。

例えば、 そのまちの小学校を巣立ったのか、 巣立っていないのか、 それから、 自分の家から駅までのルートがどういう道なのかという空間体験の密度差によってもアイデンティティのとらえ方が全然違う。

五番目には、 そういうアイデンティティは、 時代精神と共に変化するものだということも私共は忘れてはならないことだと思うのです。

ですから、 特に商業の問題なんか特にそうですが、 アイデンティティというのは、 今考えているアイデンティティがこうだといったとしても、 それは今の時代精神の影響を受けた表現である場合が多いものです。

   

 例えば、 具体的にいいますと、 今はベイエリア開発で、 ウォーターフロントのアイデンティティとは一般に美しい浜辺をイメージしますが、 ひと昔前、 私どもが小学生の時にはモクモクと煙のたつ工場も近代都市の象徴として、 大阪湾のすばらしいアイデンティティの一つだったのです。

こういうふうに風景の意味そのものも変わっているということを私は忘れてはならないと思うのです。

   

アイデンティティを創る3つのアプローチ

 アイデンティティはこのように様々な角度があるということを前提にした上で、 そのアイデンティティを創るには、 私は次の3つのアプローチがあるのではないかと思うのです。

   

 それは第1に、 震災復興も含めてそうですが、 まちを新しくつくりながら、 そのまちのアイデンティティまでつくるというアプローチと、 2番目に懐かしい風景をつくる、 記憶を創るアイデンティティづくり、 ないしは記憶を残すことによるアイデンティティづくりがあります。

   

 3番目のアプローチとして、 さらに、 それが今後のアイデンティティづくりかなと思うのですが、 先ほど井口さんは、 「そこにしかないもの」と言っておられましたが、 その場所の持っている意味を再評価することによってアイデンティティを発見するアプローチです。

   

 今世紀末になって近代の都市づくりの様々な試みが終わり、 アイデンティティがどのように生まれてきたかと反省してみますと、 私はやっぱりそこらあたりではないかなと思っています。

   

分析ではなく直感が必要

 ただ一般的なありふれた風景を如何に「共有風景」にするかという時に、 私自身が今考えていますのは、 できるだけ人間スケールの感性の中にいかに持ち込むことができるかということです。

例えば、 一人一人の個人の個性を目とか鼻、 部分だけを見て、 その人の個性が判ったとは決して言えないんですね。

その人の髪型とか、 それから、 全体の体型とか、 服装とかネクタイやシャツの色はどうであるか、 その人の全体を総体的にとらえて個性が解るように、 都市のアイデンティティも環境のアイデンティティもどこかに総体としての個性の臨界点、 すなわち個性の集積の臨界点があると思うのです。

部分部分の細部だけを集めても、 まちのアイデンティティは出てこないのだけど、 ある一定程度の個性の要素単位が集まれば、 アイデンティティというのはでてくるのではないかと思うのです。

その臨界点を直感的に見つけることが僕らの大事な作業ではないかと思っています。

デザインの立場では、 それは直感で見えてこなければならない。

それがでてくれば、 共有の風景がでてくるのではないかというような気がします。

   

 そこで直感から、 臨界点を探す作業とは、 どういうふうにするのかということですが、 私自身は、 かつて阪大におられたベルグソン研究家の澤瀉久敬(おもだかひさゆき)教授が言われた視点が応用できるのではないかと考えています。

彼は、 哲学における直感とは何かということを風車になぞられました。

風車を外側から見て、 それがどういうふうに回っているかと分析的に見るのは科学の目である。

哲学というのは、 ものを内から見る。

そこに分析でなく直感が必要だというのです。

   

 ただし、 内から見るということは、 中で風車が回っている機構を見ることじゃなくて、 実は、 自ら風車の羽根になることだ。

一緒に回ることなんだ。

それが哲学なんだと言っておられます。

実はこれはデザインにも当てはまることです。

アイデンティティを見つけるということは、 実は風車になって風と共に回り、 直感を養うことではないか、 またそれと共に回っている自己の羽根を遠くから見るという目も必要でしょう。

そういう相互の関係性を持つことによってアイデンティティづくりのひとつのアプローチがでてくるのではないかと考えています。

   

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