ランドスケープを専門としています。
わかりにくい対象をこれほど多面的にお伺いすると、 さらに判らなくなるような気がします。
そこで少し視点を変えて、 裏返しのアイデンティティ論といったようなお話しをさせていただきます。
であるのに、 このところアイデンティティのみをとり上げて議論されることが多いのは、 仕事のプロセスの何かに問題があるのか、 あるいは商品企画的な過度のアイデンティティを追い過ぎるかのどちらかであると思います。
さらに結論を重ねますと、 後者はまともな仕事として問題外であるとして、 プロセスの中でランドスケープ的資質の汲み取り方や活用方法、 即ち、 場の特性との関係が希薄であることが大きな原因となっていると考えます。
これは、 他にも問題があるのかも知れませんが、 特に私の専門からの手前味噌でもあります。
また、 私は非常に実務的な人間でありまして、 抽象論としてのアイデンティティではなく、 実際の仕事のプロセスとしてアイデンティティを実証的に語りたいのです。
少し乱暴な区分かもしれませんが、 ソフトの展開もありますが、 我々が直接的に仕事上の最終成果としてアイデンティティを表現し得るのはハードデザインであると考えたいのです。
その後、 歴史的時間の積み重ねや、 住む人々の生活行為によって、 さらなるアイデンティティの創造が期待されますが、 それを読みつつも、 我々が直接手を下すことができるのは、 モノづくりの世界です。
建築デザイン等は上モノの代表ですが、 ここでは舗装材等、 地面の表面を飾るものも上モノに区分します。
地面的モノとは、 地面の持つ特性、 すなわち基盤的ランドスケープそのものをいいます。
少し意地悪い言い方をしますと、 最近の街づくりにおいて多くの議論が上モノに集中し、 その限界打破から、 アイデンティティの抽象論や住民生活論が語られているようにも思えるのです。
私は手前味噌で、 下モノ、 広い意味での地面の特性、 資質こそアイデンティティの根元であると考えるので、 プロセスの中で本格的にそれらを汲み取っていれば、 上モノデザインは、 もっと楽になるのではないか思っています。
例えば、 安藤さんの京都のタイムスですが、 あれは安藤さんが最初から京都らしさというアイデンティティの表現をねらったのではなく、 彼の仕事の場としての高瀬川に働きかけた結果がタイムスのアイデンティティであって、 彼の使ったデザインボキャブラリーや素材は、 場の違いにかかわらず彼の仕事に共通し、 普遍であり、 彼のアイデンティティであると思います。
京都的かどうかということについては、 川と建築物、 即ち、 上モノのデザインと下モノとのかかわり方が京都的あるいは高瀬川的であるといえるのでしょう。
先ほどの井口さんの仕事であるビッグステップも、 建築の表面的デザインによるアイデンティティではなく、 大建築の露地的小空間への対応としてのアイデンティティであると思います。
さらに外国の例で、 ロンドンのウォータールー新駅では金属とガラスによる超モダンなデザインが、 一体化された建築の歴史性への解答として良質のデザインアイデンティティを示しています。
舗装やストリートファニチャーにしても、 場に合った良質の素材やデザインアイテムは、 場の特性が同じなら全国共通に普遍であるといえるのではないでしょうか。
それに増して、 無理なアイデンティティが追求された時に変なデザインが出現してしまうように思えます。
この会はどうも言いっぱなしの会で、 何かをまとめるというのではなさそうですが、 話しのフェーズは様々ですし、 対象領域のスケールもまちまちで、 本気をだすと結構いらつくものがあります。
その原因として、 私のランドスケープへの思い込みと、 一般へのランドスケープ的考え方の浸透が十分でないことがあると思います。
このあたりはランドスケープ側の啓蒙不足として我々に責任があるのでしょうが。
そこで、 この場を利用してランドスケープの宣伝に努めなければという気になりました。
ランドスケープをまちづくりからとらえる時に、 基本となるのはレルフさんのお話しにもありました、 場に内在する資産や資質の掘り起しということに尽きると思います。
これまでのお話しの中で、 アイデンティティへのスケール的対応として、 京都とか芦屋とかで括った話しが出てまいりましたが、 文化論ならともく、 我々の仕事上の話しだとすると、 そのスケールではデザイン実態をスケールアウトしていて具体化に対し役に立たない抽象論に終ってしまうように思えるのです。
仕事ではもっと場を特定して、 五条坂であるとか、 先程の高瀬川、 あるいは北山通りという実態的スケールとして取り上げる必要があります。
即ち、 ランド特性による区分です。
勿論、 東山や比叡山、 鴨川といった京都のインフラスケールでの話しもありますが、 その場合も抽象論でなく、 具体的もの論としての展開です。
また芦屋にしても色々で、 丘陵あり、 谷あり、 平地あり、 海ありです。
芦屋として括るより、 それらの場の実態的要素の方がアイデンティティの成立にはずっと強く作用します。
尼崎についても同じで、 塚口あたりと阪神尼崎、 港では資質がまるで違います。
その中で、 アイデンティティ的には低いと思われているJRから阪神間、 及び港の方が塚口より場の資質はずっと高いと私は思っています。
入り組んだ海岸線や水門をもつ海岸部はともかく、 JR、 阪神間には、 かつてそれに続いていた水路が結構残っているのです。
現在は腐りかけているので注目されませんが、 歴史的にはもっと多くの水路と内港まで備えたまちですので、 そのあたりの掘り起しをすれば、 サンアントニオや柳川のアイデンティティも夢ではないのです。
また、 埋め立てて土地だけを広くしてしまい、 海が感じられなくなったメリケンパークは場の資質を捨てた典型です。
公園内よりも、 隣の水上警察前とか倉庫の建ち並ぶあたりの方が、 ずっと場のアイデンティティが感じられます。
ハウステンボスについても、 私は、 オランダ風の建築群よりも、 資質の貧弱な埋立地に運河を引き込んで資質基盤を創造したことを高く評価します。
メリケンパークとまったく逆の例ですね。
また、 別の例では久先生御発表の能勢街道の話しですが、 歴史的アイデンティティづくりには直接的に建築の修復、 保全などが行なわれ、 舗装やファニチャーに凝ったものが設置されます。
しかし、 私としては、 それ以前に、 街の構造や基盤的資質を整える方が先であり、 その後に住民意識も含めてアイデンティティ形成が誘導されるように思います。
具体的にはバイパスルート強化による車の排除や、 通常街の中心部でしか行なわれない電線の地中化などを先行することです。
この例の他にも、 街の構造が界隈性にみられる自然発生的な小さな街区のアイデンティティを引き出していることが多く見られると思います。
阪神尼崎駅の駅広と幹線道路によって区切られた、 表向きにはエアポケットのようなところに、 猥雑さをも備えた活気ある界隈が出現しています。
かつて大阪駅前の阪神デパート裏にも、 魅力的な界隈がありました。
今はすっかり建替えられて、 上塗りのアイデンティティをもとめた街になってしまいました。
そのどれもがいわゆるアイデンティティ形成を目的とした見直しなのです。
そこで何をやるかというと、 もう一度場のもっていた資質を掘り起し、 既存計画にどう乗せるかといったことや、 特化された場の創出、 さらには既存計画が文言的に目指した目標を、 場の資質を整えてどのように具現化させるかなどです。
実際には土地利用や造成の見直しと、 ビルトアップに向けてのコードづくりなどです。
そこにおいて常に感じるのですが、 全てではないにしろ都市計画とは計画概念のレベルに留まっていることが多く、 場の実態との間になぜ開きがあるのかということです。
極論すれば、 場の持つ特性はかえって概念をそのまま落すことのマイナス要因であり、 それを排除するために大造成をかけるように見えます。
せっかくの資質をなくしてしまった後に、 後付け上塗りのアイデンティティ形成がなされていることが多く、 これが色々な意味でデザインの悪化や予算の無駄使いに通じているのではないでしょうか。
ところで人様のスライドを例にとっては恐縮なのですが、 上野さんの香港の事例です、 世界的にアイデンティティの高い街といわれる香港も無理につくったものではなく、 島、 平地の狭さ、 世界的経済の集中、 歴史性、 等々、 因果関係のもとに発生したアイデンティティであって、 あれが香港の無理のない自然な姿なのです。
またバンコックのチャオプラヤ川においても、 経済発展の真っ只中にあるバンコックにあって、 あのトタン屋根や板敷のテラスがいつまで続くかわかりませんが、 それらが現代的ビルや瀟洒な住宅に置き替った時においても、 彼らが川に向かって建つか、 それとも川を背にして内陸の道路に向いてしまうかが、 アイデンティティが継承されるか否かであると思います。
他のスライドのミコノスやネパールの例にしても、 ランドスケープとしてはあの個性的な、 それでいて我々の世界とはかけ離れた建築群に眼を奪われていては困るので、 そこには黒いマスクをかけて、 街角からどのように海が見えるか、 山が眺められるかといった視点でアイデンティティを感じてほしいのです。
色々、 例を羅列したに過ぎませんが、 これらを通して、 ランドスケープがどのように実践的アイデンティティづくりを考えているか御理解いただければ幸いです。