JUDI関西 「アイデンティティとまちづくり」
左三角前に 上三角パネルディスカッション目次へ 三角印次へ

都市計画から見てみると

大阪芸術大学

田端修

顔写真

 田端でございます。

都市デザイン的な視点からのお話が多かったと思います。

そこで私の方は比較的プラニング、 都市計画の方にウェイトをおいて勉強してるといいますか、 日頃考えておりますので、 その辺から少し話をしたいと思います。

   

暮らしぶりをどう考えるか

 今日はいろんな話があったのですが、 「そこに住む人」や「くらしぶり」もアイデンティティの大きな要素だ、 「土地」「歴史」とならぶ三つのうちの一つだ、 という認識を多くの人がのべられました。

しかし具体的な展開に関する話題は、 あまりなかったですね。

そこでこれに関連したことを話したいのですが、 小説家の田辺聖子さんが震災直後に毎日新聞に小さなエッセイを寄せられています。

阪神間は女性が元気なまちだということ、 その明るくて快活な女性達がしっかりまちを再建してくれるだろうこと、 そういう期待を込めたエッセイだったのですが、 これは僕はすごく面白いと思いました。

つまり阪神間の文化というのは「人」の身体に染みついており、 彼女らが中心になって伝えていく構造ができているのだと、 そういうことを言ってるのだと思うのです。

まちは潰れたけれども、 そこに住む「人」がもう一回つくり直してくれる。

同じ形になるかどうかわからないのですが、 そのまちの明るさとか、 人の元気さとかは、 変わらないんじゃないかと思うのです。

地域の持っているアイデンティティという時に、 「人」の役割をもっときちんと考えていかないといけないというような気がします。

   

郊外地域に危機が

 そういうことからいくと、 今、 日本の都市の中で、 すごく問題なのは、 大都市郊外地域だと思います。

伝統的郊外ともいえる阪神間に対して、 新しく開発された郊外にはそんな「人」をつくるシーズがほとんどないのではないかということです。

とりわけ第二次大戦以降にどんどん広がっていった郊外、 それは住むだけの場所ですね、 ほとんど。

ニュータウンを見れば正確に分かるのですが、 住宅だけがあって、 ちょっとばかり買い物の施設ぐらいがある、 そういう場所をたくさんつくってきたわけです。

そして今、 日本のまちの圧倒的なシェアは郊外が占めているのです。

   

 その住むためだけの場所から出来ている郊外というのが何かというと、 今日は海上都市のワークショップの報告の中で、 海上都市は純粋培養した安全しごくの環境であるという話がでました。

しかし、 そんなつくり方はあかんという話はあまりなされなかったと思いますが、 やっぱりまずいというふうに僕はいいたいと思います。

それはもっと強調されないといけないことです。

そこで育っていく子どもが、 ふつうの市街地の道路を渡る時に車を避けきれないという、 そういう環境をつくるのはすごくまずいと思うのです。

車を批判するにしろ、 どうするにしろ、 やはり体験しないといけない。

先ほど「自力」という言葉を山崎さんがおっしゃいましたが、 自力で生きていける環境的能力を育てることを、 あるいは鳴海先生が最初に「ノマド」という話で、 環境を自分でよみ解いていく能力の必要を提示されましたけれど、 人はそういう能力を持たないと困るわけです。

それは「人」をつくる最小限の条件なのではないでしょうか。

   

遊ぶ場所が大切

 そこで郊外の環境の問題ということですが、 そこには環境をよみ解くための材料がきわめて乏しいということが指摘できます。

それは一体何かということなんですが、 もちろん車もあるのですが、 住宅だけではなくて、 働く場所とか、 それから遊ぶ場所の欠如に問題があるのですね。

近代都市計画の導標としてのアテネ憲章では、 住む、 働く、 遊ぶという三つのゾーンをきちんと分けてつくる。

あとは交通体系をつくれという提案をしています。

そういう地域を用途ごとに分離していくという考え方が近代都市計画の基本になっていて、 日本の制度的都市づくりはほとんどそれでやっているわけですが、 遊ぶ場所のためのゾーニングはない。

住居系、 商業系、 工業系の用途区分しかないので、 住む場所と働く場所しかつくっていないわけです。

ここでいう「遊ぶ」というのは、 公園・緑地など住宅地に含まれるべき自然系の基本要素のことでなく都市の中の賑わい、 楽しみなどに関わる人工系の遊びのことを考えています。

それは代表的には人が群れ集うような繁華街や界わいなどのような場所ですが、 そういう場所を郊外につくるしくみがないということです。

これはまた日本の都市計画の失敗の一つであるという気がします。

   

 ただ古いまちには遊ぶ場所がいっぱいつくられています。

ですから古いまちに住んでいる人は、 そこで遊べるし、 郊外に住んでいる人も、 郊外に住み、 古いまちで働き、 遊ぶ。

そういうスタイルができています。

ですが、 子供達は自由にはそういった場所へ行けないわけです。

自分たちの周りに、 そんな遊ぶ場所がないといけない、 あるいは働く大人や仕事の場所をかい間みる必要があると思うのですが、 そうなっていないわけです。

自力で生きうるまちとか、 それを覚えられるまちとか、 環境をよみ解けるまち、 それが結局アイデンティティのあるまちの基本条件だと思うのです。

   

 これから郊外のアイデンティティの強化をはかることが必要です。

その時の方法としては、 住宅地の中に遊ぶ機能を運びこんでくる、 小さくてよいから遊ぶ場所をつくるということをやっていかないと、 まずいのではないかという気がしています。

   

 今日の一連の話題とはちょっと違うわけですが、 都市全体の中でアイデンティティをどうするかという枠組のなかでの郊外論として、 参考にしてもらえるのではないかと考えています。

   

左三角前に 上三角パネルディスカッション目次へ 三角印次へ


このページへのご意見は

都市環境デザイン会議関西ブロック JUDI Kansai

フォーラム記録目次へ
フォーラム・テーマ・リストへ
JUDI関西ホームページへ
学芸ホームページへ