なぜなら、 そこからデザインとは何かが見えてくるからです。
実はこういう経験があります。
今、 広島の都市河川のプロムナードの設計をしているのですが、 そこで試みているのはステレオタイプ化された広島イメージのアイデンティティをつくらないようにしているのです。
なぜならそれまで広島のデザインをすると、 必ず原爆や戦争に対する何かを必ずいれなくてはいけないとか、 そういう記憶のステレオタイプが必ず入ってく場合が多かったわけです。
それがないと市民意識を表現していない、 という負い目があって、 新しい試みができにくかったからです。
私はそのようなアイデンティティの拘束から解放されたいと思ったわけです。
もう少し具体的な事例で言いますと、 川沿いのプロムナードをつくるときに、 じゃあ、 広島らしい川沿いのプロムナードをどうつくるのかという時に、 震災のことを思い出したのです。
震災が起こった1月17日から1ヶ月半ぐらい、 私は大阪芸大の若生先生達とリュックサックを担いで公園の避難者の方々にヒアリングしながら避難所のあり方について調査していました。
どこにテントを張っているか、 どういう遊具をどのように利用しておられるか、 またその公園に何人ぐらいの方々が、 どこから来ておられるかをヒアリングしながらその配置図まで学生の協力を得てまとめていたのです。
おもしろい結果がでました。
結局、 地縁関係なんです。
公園や公共施設に避難し、 自治組織をつくられた基盤は。
もちろん血縁でまとまられる方もおられますが、 社縁としてのつながりなんてほとんどない。
普段から町内の顔み知りの地縁社会でまとまっているのです。
5m離れた街区から人が来ないのに、 何故か200mから500m圏から来ている。
それは回覧板のまわる町内会の地縁関係がそうだからなんです。
顔見知りの関係とは500m圏以内なんですね。
ところが我国の避難地計画では2km先までいきなさいという。
その時思ったのは、 顔見知りの地縁関係から生まれるアイデンティティというのか、 公園との関わり、 施設との関わりができ、 愛着を持てるテリトリーとはこんなものかなと思ったのです。
彼らがどういう一日を過ごしているかということです。
僕は調査はそんなに数学的にやらなくて良いと思っています。
感性的で十分です。
じっーとそこに座っているだけでも良い。
さっき重村先生が陽なたにいる二人のおばあちゃんの話をされました。
ほんとうにそういう感じです。
勘でやらないと判らないアイデンティティがあるんですね。
問題は、 そういう「ただずまいのありかた」を如何に見つける目があるかどうかだと思うのです。
その時僕が気がついたのは、 川を歩く人々の足音です。
歩くスピードをゆっくりにして歩く足音を楽しめるようにすると、 このまちの人々も愛着がもてるデザインができるのではないかということでした。
そこで、 従来からのロッキングを使わずに、 ウッドデッキを使って、 川沿いの既存樹林を残した「都市の縁側」をつくろうと提案しました。
これらは市役所の方々にも説明して賛同してもらったのですが、 アイデンティティをつくるということは、 いろんな側面があるということがその時解りました。
その場所での人々の行為(アクティビティ)を見つけることからも、 固有のアイデンティティが見つかるものだと。
先ほど田端先生が郊外でも遊ぶ事が何かできないかと言われました。
それは別の言い方をすると、 アクティビティを見つけること。
それは空間との関わりから生まれるデザイン言語を如何に空間構成原理に転換するかという、 堅く言えば、 そういう表現になるのでしょう。
これが、 アイデンティティに対するひとつの大事な姿勢じゃないかと今思っています。