一つは、 今までの皆さんの話の中にも多く出てきたのですが、 時間を重視するという考え方です。 先ほど私は「人間の人生」スケールの中で物事を考えたらいいんじゃないかと言ったのですが、 高度成長の時代になっても「人間は促成栽培ができていない」のです。 ちょっと成長が早い人たちがいらっしゃるかもしれませんけれども、 あんまり「早くはなっていない」ということです。 人生全体が長くなっているかもしれませんが、 人間の中の記憶だとか思い出を形成する時間は、 たぶん今の子供達も我々の時代とそんなには変わってないんじゃないかと思います。 そういう時間の中で、 思い出の中で大きな位置を形成するものを保存・残存させていかなければいけないと感じています。 それには、 相当量を保存・残存させないとそういう雰囲気が出ないと思っております。
私は住宅地造成に関わることが非常に多く、 今までやった仕事で気に入っていないのが結構多いわけです。 どうしてこういうことになるかと言いますと、 都市計画の世界は、 デザイナー一人で決められないのです。 ある種の「集団合理性」みたいなところがあるものですから、 必ず話が「平均値に収束していく」傾向があるのです。
地元に説明したり、 各関係機関と調整したりしているちに、 最初のマスタープランの光っているところがだんだん消えてしまうというような傾向があります。 ある種の経済原則も働いたりするものですから、 そうしたアイデンティティにつながる要素が残りにくいのです。
今日、 日本で行われているいろいろな住宅地造成で自然を残しなさいと言われると、 いやいやながら不利用地みたいなところをカウントしています。 本当は昔の風景になるような、 山の形が残っているとかいうことが必要じゃないかと思っています。 そういう手がかりになる場所は、 単に一カ所あってもだめで、 三つぐらいあると、 自分の位置が確認できることになります。 まちの中に複数の場所が残っているということが大事なのです。
人の喜びというのは、 ある種なんでもない話を聞いていると楽しいというような部分もありますので、 そういう話の語り草になるようなものが残っているということが必要なんじゃないか、 とも思っています。
例えば、 阪神間の諸都市は集団のアイデンティティがあるのですが、 沿線住民は差別化というよりも同質化に誇りを感じているかもしれないと思っています。 だから、 既に形成されている阪神間と言われているアイデンティティをぶち壊しながら新たなアイデンティティを形成していこうとはならないんじゃないかと思います。 むしろ、 その中の一部であることをもって、 非常に好ましいと考えているのではないかと思うのです。
だから、 本当は芦屋ではないのに、 芦屋の近くに芦屋というテリトリーに加わりたいと思って住まう人たちもいらっしゃる可能性もあるのです。 東京でも、 例えば国立と言っているのですが、 よく見ると府中だったり国分寺だったりするわけです。 それでも不動産屋は国立といって売り出していて、 住民も他市域に住んでいても「国立です」と言います。 よく似たことは他の所でもあると思いますが、 これは差別化とは全く違うものです。 若干同質化しながらやっていくという、 そういうようなことも、 人が自信を持って生きる、 その拠りどころを求めるという意味ではありうるのではないかというような気がします。
先ほどお話にあったように、 あまり急速にやるといろいろ議論があるかもしれませんが、 たぶん世の中に小京都みたいなものだとか、 そういうこと自体を結果として今日のアイデンティティにしているまちもあるわけです。 その過程では寂しい思いをされたかどうかちょっとよく判りませんが、 必ずしも差別化がアイデンティティをつくる手法ではないということを頭においておいたほうがいいのじゃないかと思います。
先ほど大きな景観をつくる時には、 全体というか大きいレベルでは同質でありながらも、 それでいて小さいレベルでは個性を発揮するという関係を上手くつくると言いますか、 そういうことを頭においた行動ができると、 非常にいい形でのアイデンティティの形成へ繋がるのではないかということを、 常々思っています。