まさに芦屋になりたかったり、 御影になりたかったり、 そういうところが阪神間です。
今皆さんのお話を聞いていて、 ちょっといくつか反論したいと思います。
やっぱり僕はグルームはえらかったなと思うのです。
六甲山の緑をつくり、 山の自然の楽しみ方を教え、 我々に新しいスポーツを教えてくれました。
今もそういうチャンスなんじゃないか。
かなり人工的にしてしまった空間の中で、 何かまた現代的な、 同時代的な自然の楽しみ方で、 バードウォッチングだとかビオトープだとか、 あるいはもっと全然違うような、 スケーターボードとかいうのを使うものかもしれませんが、 とにかくそういうものをクリエイトしていくということが、 今重要だと思いました。
僕もまちを歩いていて、 本当にアイデンティティクライシスに陥るわけです。
ここ何処だったんだろうとか、 もう一本向こうだったかなとか、 なぜあれが見えるんだろうとか、 そういうような状態になるのです。
いわゆるプロフェッショナルとしては、 完全復元するなんて仕事は僕の所にはこないわけです。
ところが北野の異人館では、 何とか完全復元する仕事をさしていただいているのですが、 その場合でも、 完璧な図面が残っているとは限らないのです。
なおかつ元の色が何だったかというのは、 また分からないわけです。
それで北大の僕の仲間達がやったような、 サンドペーパーで擦るとか、 いろいろな方法があるのですが、 本当の色合いが分からない。
そこで、 その時に役に立つのが画家なんです。
だから偉い先生方の絵をあるところへ行ってみると、 少なくとも二箇所以上の壁が、 この色で塗ってあって、 下から出てくる色も、 それが風化した色だったら、 ほぼ間違いないだろうとか、 そういうことをやるのです。
だから結局無意識で享受してるのですが、 やはり画家とか、 そういう人達は、 非常に意識的にその色を意識しておられるわけです。
そういうことを今回勉強しました。
僕の友人のドイツのマンフレッド=シュパイデルという男から教わったのですが、 札所というのはみな写しがあるわけです。
例えば西国札所の始まりは清水寺の写しというのは、 例えば上野の東叡山(東の比叡山)の所にも舞台があるわけです。
そういうとこにもまたミニ33箇所があるわけです。
結局、 その写しはもちろん、 景色が版画になったりして、 実際にビジュアルに写されていくということもあるのですが、 御詠歌の中にも詠まれているのです。
巡礼者が御詠歌を門先で歌うと、 何がなんだかわからない呪文と鐘の音が聞こえてきます。
早くお金あげて帰ってもらおうなんて思いますが、 結構面白いことを歌っているわけです。
あれを丁寧に読んでみると、 環境のつくり方が書いてあるわけです。
だから要するに「歌は世につれ世は歌につれ」じゃなくて、 環境が歌をつくって、 今度はその歌があるために、 環境のリプロダクションができるというようなことがあります。
言葉とか絵とかそういうものに環境を置き換えていくということは、 よく考えると当たり前なのですが、 現実は偉大だなと思うわけです。
要するに時間はかかるかもしれないと、 それから今荒っぽいやり方で急いでやろうと思ってる人たちは、 どうぞおやんなさいと、 絶対出来ませんよ、 と思っているのです。
ここの中にも急ぎすぎている方々がいらっしゃるけど、 大いに反省していただきたい。
とにかく神戸が良くなるのは、 その住民が持っているものを、 引き出したものしか絶対にできないんですよ。
それを承諾しなきゃ絶対できない。
だけれどもそうしたら、 古くさいまちになるか、 あるいはみっともないまちになるかといったらそうじゃない。
そういうものがコラージュされた、 何か新しいコラージュシティになるのです。
そういうことを僕は確信を持って、 オプティミスティックにやりたいと思います。
今、 少し厳しい強い口調で言ったような気がしますが、 喧嘩もしないで、 仲良く皆さんとですね、 コラージュシティをつくっていきたいと思っておりますので、 どうぞよろしく。