私よりも少し上の世代の建築家とか造形家とかはきちんと環境の相対的な関係とか、 歴史のことも勉強されてつくられるのですが、 最後になってもう「これは普遍的にいいんだ」とか、 言われるのです。
これはその途中のプロセスで他のことを考えておられたんじゃないでしょうか。
そこの途中のプロセスのことを、 もっと後輩に教えてほしいという意味で言いました。
それからイタリアのことを言いましたので、 井口さんの再生がアイデンティティではないとか、 それから、 本当に日本の都市にもアイデンティティがあって、 それが見える意味あいを持つかどうかっておっしゃったのは、 本当にそうだと思うんですね。
結局我々は見えるものしかつくれないのではないかと思うのです。
それから、 先程は普遍的手法を批判しましたのにこんなことをいうと自分で言っておいて話を弱めるみたいですが、 心理の普遍性みたいなものもやはりあると思うのです。
この間、 イランかパキスタンの映画だったと思うのですが、 「友達の家は何処」という映画を家族が見ていて、 私も見てしまったのです。
むこうの小学生が親に叱られながら、 友達に借りたノートを返しによその村まで訪ねて行くお話だったのですが、 僕らの少し貧しかった小さい時のクラスメートへの思いとか、 まじめに先生のいいつけを守らないといけないとか、 そういうのが出てきて、 やはり人の思うところは、 結局、 普遍的なんだと思ったのです。
そう思うと都市環境のアイデンティティは、 もう少し浅いところで話をしているのではないか。
そこまで深いところまで行くと同じかもしれませんが、 もう少し浅いところで、 例えば、 その映画のつくり方とか、 映画の風景とか、 あるいはそれと同じような意味で環境の姿とかに私たちはアイデンティティを求めているのではないかなと思うのです。
たとえ浅いとしても、 そこを通して初めて、 普遍的なこととはこうなのかということが解るのかと思います。
その辺をちょっと僕は自信はないのですが、 そんな気がいたします。