結局アイデンティティというものは、 良いとか悪いとか評価するものではないというのが、 たいへんよく解ったと思います。
それは、 ある意味で自覚するとか、 知るとか知らないとか、 解るとか解らないとか、 そのような話なんだなという気がします。
人というのは、 知ってるものしか解らないわけです。
私は一年ほどアメリカにいたときにウィスコンシン州の小さなまちにいたのですが、 あそこは、 たいへん起伏のある土地です。
その起状というのは、 なだらかに続く丘がうねっていて、 彼らは「hilly」とよくいうのです。
彼らにとっての山は、 ロッキー山脈です。
そうすると、 彼らにとってはこの辺りの六甲山系の山々は、 山とは違うというわけです。
これは丘だと。
結局、 私たちは知っていること、 経験したことを基準に、 まちや風景をよみとっているのです。
それと、 人についてアイデンティティを考える時は、 その人の全体をみるわけです。
あの人らしいというような時には、 全人的なものがあると思うのです。
なのにまちのときは比較的形のことを、 要するに容姿端麗みたいな容姿のことばかり言われているような気がするのです。
そうではなくて、 今、 田端先生がおっしゃったような遊びということも含めた、 全まち的な、 そういうようなとらえ方が必要だという気がします。
それではなぜ、 そういうことを思うかというと、 技能や技術は人が持っているわけですから、 そういう人がいなくなると、 ものもつくれなくなるし、 まちはつくれないわけです。
それは、 ルールを持つとか、 作法という問題だけではありません。
いわゆるカーテン職人がいなくなった為に大きな窓のカーテンが作れないとか、 椅子貼り職人がいなくなった為に、 これまでの椅子の修理ができないとか、 その手に職を持ってる人が皆いて、 そういう状況の中で一つの生活があり、 まちがある。
まちも人と同じような、 全まち性ではないかな、 ということを一つ思いました。
私もずっと都市計画という分野で仕事をしていまして、 先ほど、 成瀬さんが悩んでらっしゃるようなことは、 同じように悩んできたわけです。
まちづくりのプロセスの中で、 光るようなものがなくなっていくというようなこともよく経験しました。
また、 スケールの話が何度も出ましたが、 とても小さなものから、 凄く大きなものまでいろんなスケールで、 まちの空間は語られます。
その都市の中には再開発のエリアとか、 昔からある密集市街地のエリアとか、 マンションがポコっとできたところとかというのがあって、 本当にモザイクみたいになっているのが都市の現状です。
コラージュシティという言葉も出ましたが。
これは都市の中にまちがあって、 まちの中にもいろいろな場所があって、 これらを如何に関係を取っていくかという関係性の計画みたいなものが、 これから必要ではないかなと思ってます。
その関係性をつくる時に、 何を取っ掛かりにするかというと、 その形とか、 建築と建築との関わりとかそんなものよりも、 むしろどちら側に何が見えるかといったことの方が大事なのではないかと思います。
あるいは、 家からあそこまで行くときには、 こんな道であってほしいとか、 そういうものから出てくる関係性です。
先ほどのスライドで言えば、 山から海が見通せるというようなことが大切なんです。
このような関係性の計画においても、 生活の中で見て、 知っていることの影響があると思います。
私も長く阪神間にいます。
山手から坂の先に市街地が広がり海が見えるというのを、 知っているわけです。
そうすると例えば、 シアトルとかバンクーバーに行くとやはり同じ風景が「見える」のです。
同じだと思うわけです。
何かそういうところに、 らしさみたいなものが、 あるのではないかというのも思いました。