まちの魅力なのか、 らしさなのか。
なんでわざわざ小難しげな外来語を使うのだろうか。
この間、 ワークショップに参加して、 不思議に思ったことがある。
それは、 何のアイデンティティなのか、 ということだ。
前田のアイデンティティと言えば、 僕の問題であることに何の疑念もない。
都市環境デザイン会議のアイデンティティと言っても、 一応、 この会の問題だということがわかる。
だが、 京都のアイデンティティという場合、 まず、 その京都が定かではない。
京都府なのか、 京都市なのか、 はたまた個人的に京都だと思っている範囲のことなのか。
揚げ足取りみたいだが、 これは結構重要だ。
「京都のアイデンティティ」という時、 結局は一人一人の「京都のアイデンティティ」を出発点にしなければならない。
だからこそ、 「市民参加の」と銘打ち、 私の、 あなたの、 彼の京都のアイデンティティを語り合ったのだ。
だが私の、 あなたの、 彼の京都が果たして同じものかどうか分からない。
無理矢理行政区画で線引きしても、 何のリアリティもない。
その上、 京都との距離の取り方がまた一様ではない。
京都といえば私のまちとして語る人もあるだろう。
だが僕のように、 誰かの魅力を語るのと同じようなスタンスでしか語れない人もいる。
京都にはお寺が多い、 それが魅力だ。
たしかに。
しかしそれは僕のまちの魅力を語っているのではなく、 国際観光都市・京都を外から見て語っているのだ。
豊中のワークショップで参加したグループにおられた地元の方が、 能勢街道といっても、 コミュニティが一つであるわけでも、 確としてある訳でもないから、 難しいということを言われていた。
わりと小さな範囲でも同様の問題があるらしい。
西宮のワークショップではアイデンティティはまちづくりでつくるものじゃない、 結果として出来てくればハッピーというものだといった意見が出ていた。
これも通じるところがある。
アイデンティティを語るには、 その場所への帰属意識がなければならないし、 帰属意識を持つには、 アイデンティティを感じるものがなければならない。
これは人為的に操作できる範囲を越えているようにも思えるし、 今となっては流れに任せて出来るものでもないように思える。
結局の所、 あまり気張らずに、 誇りに思えるような何かを造ったり、 目立たせたり、 大切に守ったりすることで、 確たる境界線もない曖昧な地域に「わたしのまち」を感じることが出来るようになることがハッピーなのではないか。
その程度のことが出来たら万々歳だろうし、 それ以上のことはやってはならないように感じた。