アイデンティティというほどのものを確かめうる場所は本当にわずかしかない。
そのような状況の始まりを意識させられたのはいつごろからだろうか。
駅前商店街の景色が似たり寄ったりになってしまった頃、 都心の一等地にたつ大規模オフィスビルが建築雑誌の冒頭を飾り、 それが次々と広がっていった時代、 都市近傍の水田を埋め立てて建売り長屋や木賃アパートが大量建設された時期………。
だが、 決定的には都市郊外部で丘陵地を切り開きつつ進められた中層共同住宅や戸建て分譲住宅などの団地開発に如くものはないだろう。
それは母都市のまわりに幾重にも輪を重ねるように拡大し、 またあちこちに飛び火しながら現在見るような広大な都市域をつくりあげたのである。
確かなことは、 そういった事態がたいした時間を費やすことなく進んだということである。
高度成長期を1960年から数えるとして、 たかだか35年という短期間のうちに、 わが国都市地域の相貌はつぎつぎと輝きを失っていったといえるのではないか。
こんなにも急ピッチにでき上がっていった「急造都市」になんらかの欠陥がないと考えるほうが間違っているだろう。
都市のグランドプランといったものを用意することなしに進行したかに見える急造都市形成であったが、 実はといえば、 都市環境のモダン化を推進しようとする制度システムがこれを支えてきた。
はやばやと1919(大正8)年に創設された、 建築・都市計画制度のなかに深く埋め込まれている機能純化・用途分離の方法、 また機能主義が潜める効率重視の建築的手法がそれである。
第二次大戦後の急造都市建設に際して、 これらの方法はみごとに役割を果たし、 「住む」場所と「働く」場所の分離を着々と実体化していったのである。
ここで、 「遊ぶ」という都市機能がほとんど忘れられたままに経過してきていることに気付く必要がある。
われわれの都市は、 上述の経過をつうじてまるで「住む」「働く」ための労役施設のようにつくられてしまったのであるが、 それは、 先達たちが都市計画制度づくりに際して「遊ぶ」機能の充足に対する十分な配慮を怠ったことに由来するように思われる。
西欧の機能的都市論においてこの点にぬかりのなかったことは「アテネ憲章」を一瞥すれば了解できる。
「住む」「働く」にさらに「遊ぶ」を加えた3種の機能空間の自立とこれらを「結ぶ」交通空間による機能的都市像が「アテネ憲章」の骨子であったのだから。
この点からみて、 もっとも悲惨な状況に追い込まれたのは、 わが郊外に開発された住宅地の住み手であると考える。
最低限の生活施設を除けば、 まわりは住宅のみという環境。
「働く」「遊ぶ」という機能空間を身近かに持たないままに延々と広がる郊外住宅地は、 都市の一部というにはいびつすぎる。
一方で、 歴史的時間のなかで出来上がってきた既存市街地には、 おのずから「遊ぶ」ための場所ができあがっている。
結局のところ、 郊外居住者は「働く」場所も、 「遊ぶ」場所も母都市に依存することになってしまったというのが現代の日本都市の構造なのである。
急造都市のなかの「住む」だけの場所という状況のなかでは、 ほとんど環境的固有性を創出しようがない。
冒頭に、 都市景観の均質性の代表選手として膨大な郊外住宅地の広がりを上げた理由である。
このような都市環境のなかにあって、 地域のアイデンティティ形成のための手助けができるとしたら、 それはこれまで忘れられてきた「遊ぶ」機能や「遊ぶ」場所づくりを郊外地域に提案していくことであろう。
都市地域から遠く離れた場所での大規模テーマパーク型開発ではなく、 郊外地域では多様な遊びの場を発掘し、 また埋め込む作業を展開することにになるのだろう。
よく言われるように、 見たり・聞いたりする受動型の遊びだけでなく、 描く・作る・書く・歌う・読む・動く・歩く・走る・考える・学ぶ・教えるなどの能動型、 創造型の遊びを含み込む必要があろう。
週休二日制などによる長期連続マイホーム人間の増加や高齢化の進行などは、 「住む」場所の近くに「遊ぶ」ための小さいが沢山の機会と場所を創出する、 という視点につながろう。
これに対応する「近所型」あるいは「創造型」の遊びのデザインが今後求めるべき方向になるのではないか。
このような文脈のなかに、 かって先進的に見えたアテネ憲章やモダン都市の理念のほころびを確かめることができる。
同時に、 その先に「住む」「遊ぶ」などの機能が近接する「近所型都市像」を見通すことができる。
このポストモダン型というべき都市構造のなかにこそ、 地域ごとのゆたかなアイデンティティが紡ぎ出されてくる筈である。