そのイメージはだいたいにして、 人づての話や、 かって見た姿によって形成されている場合が多い。
いわゆる先入観というやつである。
そのあらかじめもっているイメージを、 本人を見たりその街にいって発見すると、 〈ああ、 あいつらしい〉とか、 〈やはり○○○の街だな〉と思う。
例えば、 京都。
〈木陰の赤い毛氈を敷いた床机〉や〈道沿い並ぶ赤いボンボリ〉などをみると、 〈ああ、 京都だな〉と思ってしまう人が多いらしい。
そうした演出がそこここでなされたりする。
ところがそれは、 旅行雑誌やTVによってつくられた〈京都〉らしさなので、 そうした京都を実際に探そうとしても、 見せかけの演出された場所にしかないのである。
〈らしさ〉はそのように理解されることが多いから、 〈アイデンティティのまちづくり〉は、 流通している、 あるいは流通しそうなイメージの演出であるととらえられがちである。
そこでテーマパーク的なまちづくりが流行ったりする。
それはそれでいいのかもしれないが、 それはアイデンティティのまちづくりの一側面にしか過ぎない。
早々と底がみえたり、 飽きられてしまったりする。
また、 そこに住んでいる人にとって、 そうした演出されたアイデンティティは何の意味ももたない。
それでは、 住んでいる人にとっての、 街のアイデンティティとはなんだろうか。
それは次に述べることと関連するが、 一貫して流れている文脈性のようなものであると思う。
しかし、 現代の都市化社会では、 人は多かれ少なかれ多重人格者で、 一貫性をもって〈自分らしい自分〉を認識できる人は少ないらしい。
仕事の場、 遊びの場、 生活の場のあまりにも明確な分離や、 生活時間のゆとりのなさがそうした傾向の原因で、 アイデンティティを喪失しているのである。
ところが、 〈ホッ〉としたときとかに、 思いもかけなく自分をついみつめてしまったりする。
その時に〈自分はやはり自分だ〉と感じれればいいが、 〈自分は何者なのか〉と感じてしまうと、 気分が落ち着かない。
それが昂じると、 ストレスになる。
そうした時に、 自分を再確認することを助ける環境というのがあると思う。
それは自然的な環境とか、 歴史的な環境、 それに自分が育ったりして親しんだ街の環境である。
いいかえればそれはノスタルジーの環境でもある。
そのような環境を必要とする場合、 そうした場所を訪れればいい。
しかし、 自分の住んでいる街がこうした環境をもっているかどうかが、 その街に愛着がもてるかどうかの違いをもたらすように思う。
こうしてみてくると、 その街を訪れる人にとっての街のアイデンティティと、 そこに住んでいる人にとっての街のアイデンティティというのがある。
その両者が一致している街は、 人が訪れても魅力があるし、 住んでいる人にとっても誇りになるのではないだろうか。