以前、 日本の各都市発のニュースは東京を中心に役割分担が決められているかのようだという指摘を聞いたが、 それと都市のイメージには関連があるように思える。
ある都市を分かり易く説明するためには、 その街の一部を拡大してそれが全部であるかのように説明することが効果的だからだ。
例えば大阪は道頓堀界隈の景観でもって全国的に知られている。
それ以外のいろんなイメージが大阪にはあるのだが、 やはり大阪には「手足を動かすカニやグリコの電飾」などがそのイメージにふさわしいとされ、 天保山やATC、 WTCなどというのは大阪らしくなくてあまり面白くないものに違いない。
やはりOBPや梅田スカイビルよりも新世界や通天閣でなければならないようだ(大阪の人たちはまた、 そのような外からのイメージを素直に引き受けているところがあるようだが)。
同じように京都にしてもマスコミに取り上げられるのはまず歴史的なことであり、 伝統的な行事(祇園祭、 大文字、 大晦日等)のときに限られる。
他の都市にしてもそうで、 広島は「原爆、 平和、 赤ヘル」の街として、 札幌は「雪祭り」の街として、 仙台は「七夕」の街となっている。
もともと都市レベルで街のアイデンティティということになるとなかなか難しいようだ。
どの都市においても地区ごとのアイデンティティがあり、 その集積として都市のアイデンティティがあるので、 都市を総体として見ると、 どうしても特徴的な部分だけを拾い上げることになってしまう。
アーバンデザインや街づくりにおいてその街の一部を拡大し、 正に外から見たアイデンティティをそのまま表しているに過ぎない場合も多い。
歴史的特性は結構だがそれを単なるデザイン・モティーフとして示す短絡ぶりはどんなものであろうか。
何にでも屋根を付けて茶色く塗って日本風、 というのはデザインでもなんでもない。
その場所の持っている地霊といったことを考えて計画されねばならないし、 現代に新たに作るのであれば、 歴史性に年月の経過というものが加味されねばならないだろう。
歴史的な場所に何の脈絡もなく現代的なものができるのも問題であるが、 あまりに歴史性を表層的に扱ったり、 歴史のあまりないところに無理矢理歴史性というアイデンティティを持たせようとすることにも無理がある。
また一方では一時のポストモダンや昨今のエコロジー(今は本質ではなく流行のように感じられるのだが、 エコロジカルな街づくりについてはおそらく誰も反対しないのだから「エコロジカルな暴力」にならないよう特に注意が必要だ)のように、 ある言葉のもとにその地とは全く関連のないアイデンティティで計画されることのないようにしたいものである。
以前イタリア・トスカーナ地方の田舎町を旅行していて、 アッシジ、 シエナ、 サンジミニアーノなど街が素晴らしく感動的ですらあったのだが、 それは一観光者である私の思いであって、 それと同時にここには自分は住めそうにないとも思っていた。
それはおそらくそれぞれの都市のアイデンティティに感動しながらも、 自分のアイデンティティとの差を感じていたように思う。
おそらくその街に住む人々は自分と街のアイデンティティとを同一化出来ているのだろうし、 そのようなことが街の基本なのだろう。
自分に合わせて家を建て、 都市を変えていくのではなく、 自分のアイデンティティに合った土地の中に溶け込むように住むことが集まり住むことの基本に違いない。
もう一つ、 日常生活が見える街というのも都市の魅力ではないだろうか。
倉敷の美観地区や京都の伝建地区のように作られ過ぎた舞台のセットのようなところは、 どうしても生きた街とは思えなくて、 観光地や寺院に対するようにしか接することが出来ない。
普段の街の人々の生活ぶりが見えるということは訪れる者にとっても街の中に入り込めたようで心地よいものである。
そのような普段着のアイデンティティでなければ定着していくことも難しいのではないだろうか。