学内での使用言語の関係でK. U. Lから分離独立したフランス語系の新ルーヴァン大学(U. C. L)が所在するルーヴァン・ラ・ヌーヴがそれである。
1960年代末以降に建設された新しい町であるが、 いわゆるニュータウンという印象はない。
町を歩いていると新しさの中にも旧ルーヴァンに共通する落ちつきと空間の豊かさを感ずるのである。
学内に設けられた計画チームGUAは、 計画に先立って、 親密で入り組んだ街路のパターンやアーケードから望まれる鐘楼の移り変わりなど、 旧ルーヴァンの街角のヴォキャブラリーを丹念に調べ上げ、 そこに見られる空間構成の原理や哲学を新都市に継承しようとしたという。
こうした方針を採用するに至った背景についてはいろいろなことが考えられる。
この計画が立案された1968年前後の時期は、 ちょうどモダニズムからポスト・モダニズムへという建築・都市計画思潮の大きな転換点に位置していた。
そうした時代の流れを鋭敏に反映したという側面があることは明らかだが、 それにもまして500余年というヨーロッパでも屈指の歴史を誇る大学が、 それまで不即不離の関係を保ってきた都市を離れるのである。
旧地の伝統を空間的に継承することが、 自らのアイデンティティを保持する上で欠かすことのできない必死の挑戦だったのだろう。
ルーヴァン・ラ・ヌーヴの一角を占めるサイエンス・パークに日本の自動車メーカーが進出している。
そこに勤めるというベルギー人のデザイナーがこんなことを言っていた。
「日本の車はどういうわけかモデルチェンジをすると全然違う車になってしまう。
その前後に連続性が感じられない。
日本の車が本当にヨーロッパの社会に受け入れられるためにはこれではダメだと言っても、 日本人には分かってもらえない」。
そう言われてみればモデルチェンジはしているのだろうがベンツはベンツらしさを保っている。
激しい競争の中でせわしなくファッションを競い合っているはずの日本の車が、 かえって結果的にはみな同じように見えてしまう。
明治の銀座煉瓦街の建設以来、 大きな災害にあうたびに日本の都市はモデルチェンジを繰り返してきたが、 そのやり方は車の場合とあまり違わなかったように思われる。
第二次大戦後の戦災復興において、 枢要な部分を細部にわたって復元したケースが少なくなかったヨーロッパの都市とは対照的に、 わが国では震災・戦災復興のたびに、 できるだけそれまでとはちがう街を指向してきたのではなかったか。
そしてその結果として、 日本の都市はどこも同じような表情を持つに至ったのではなかったか。
阪神大震災の復興をめぐる多くの議論の中で、 神戸や阪神間という都市や地域のアイデンティティが問題にされている。
困難な状況の中でそうした議論がどこまで説得力を持ちうるかは予断を許さないにしても、 議論に上ること自体新しい現象である。
そこにまちづくりに対する日本人の意識の変化を読みとるべきなのか、 それとも、 それほどまでに人々に愛されてきた都市神戸の特殊性を思うべきなのか。