新しいまちには新しいなりに、 つきたての餅のような純白のアイデンティティがあり、 古いまちには古いなりに、 複雑に歴史に彩られたアイデンティティがある。
ただ、 住民がそれに気がついているかどうかが一番重要な問題である。
・ 今回の震災後、 住民は自分たちのアイデンティティを考える余裕があっただろうか。
ただ復旧、 復興が当面の問題で、 まちの質に関することはその意識にはない。
では、 誰がそれを考えればよいのだろうか。
何も意識しないで通っていた路地が昔の街道だと認識した時に、 ではこの路地を残すのか、 潰すのか、 廻りの家をどう建てるのかが議論となり、 残すなら住む人の便利さは、 安全性はどうかといった問題が出てくる。
・ 震災復興のまちづくりとして都市計画が決定され、 市街地開発事業のメニューが提示され、 こうしなければ良いまちにはなりませんよ、 と行政が言っても、 否応なくまちづくりを意識しなければならない状態に追い込まれた住民はもとのように住めれば良いという。
これは住んだ人がつくり出すアイデンティティとかなり違っている。
つくった意図と、 その意図を継承させるための管理の格差は大きいようである。
六甲アイランドの「住みやすいよくできたまち」という住民の評価と「車の危険がないので、 島を出ると道を歩くのがこわい」という生活実感はどう評価すれば良いのだろうか。
・ 震災後の都市計画、 市街地整備の計画づくりは、 誰がまちづくりに責任を持っているのだろうか。
それがはっきりしないと震災復興のまちづくりが良い着地をすることはないように思える。
住民なのか、 市町なのか、 県か国かそれともコンサルタントなのか。
皆に責任がある都市計画の手法では、 結局誰も責任を取らないシステムになっていることが歯がゆい。
またそういったもののみが評価を受ける。
ごみごみした下まちの中にある再開発ビルに美しい庭園をつくる理論と、 ごみごみした環境をアイデンティティとして具現することとのギャップは大きい。
住む人のアイデンティティというのは本当はごみごみした中にあるはずなのだが、 それでは環境デザインは成立しないのだろうか。
・ 望ましいまちづくりとやらなければならないまちづくり、 誰が仕訳をするか、 行政がやらねばならないと考えているものと住民の意識の間の溝を埋めるための方法をシステムとして採り入れていかないと、 かたちだけのまちづくりシステムは機能しない。
今回の震災が、 クレームのついたまちづくりシステム再編の礎になればよいのだが。