そんな風景の中でこそ、 洋服や洋風建築がまぶしく輝いたということが、 谷崎潤一郎の『細雪』を読むとよく分かる。
伝統に支えられてこそのモダニズムの讃歌であった。
神戸のモダンをひきたたせるためには、 神戸っ子が育ててきた特有の雰囲気はもちろん、 近代以前からの歴史的遺産も大事にしなければならない。
ただの新しさなどすぐに飽きられてしまうのである。
私が尼崎の「近松のまち」づくりに積極的にかかわってきたのも、 伝統的な遺産をひっぱりだすことで、 目新しさ志向に走る神戸市株式会社とのバランスをとりたかったからだ。
伝統とモダンの調和を図ることが、 阪神文化全体のためによいと考えたからである。
開発がこうじて古いものを壊すのが体質となってしまった神戸は、 だんだん落ち着きのない街になってしまったのではなかろうか。
尼崎市の「近松」戦略は着々と成果をあげている。
町並は少しずつ美しくなっているし、 舞台芸術のソフトも蓄積されつつある。
ただ気になることは、 何かというと「庶民の街」をうたいたがる習性だ。
おそらく山の手のイメージの芦屋や西宮や宝塚に対抗する都合上、 そう言わざるをえないのだろう。
尼崎の下町に庶民的な良さがあることはたしかであり、 結果として庶民的であることは一向にかまわないのだが、 「庶民の街」というのがはたして売り物になるだろうか。
「あの人はインテリなのに、 あんなに庶民的な人柄だ」という場合の「庶民」なら、 これはたしかに値うちがある。
しかし、 ただ単に庶民的であるということだけのことなら、 それじたい何ということもない。
庶民的な街は掃いて捨てるほどある。
庶民的であるかないかは、 背が高い低いとかと同じで、 単なる現象にすぎない。
(逆にいうなら、 傲慢でも魅力のある人間はたくさんいるわけだ。
)
大阪の地盤沈下の一因も、 多くの素材の中から庶民性という一つの素材だけを「丸出し」で売るようになってしまったからである。
今では環状線に沿った駅前はどこも「庶民の町」とうたうようになった。
ひとつくらい「気取った」町はないのかと言いたくなる。
また、 道頓堀や千日前の「けばけばしさ」を、 いかにも大阪的だと自慢する手合いがいる。
しかし、 けばけばしさを売り物にしてしまうのは、 どんなものか。
昔の船場文化のような「はんなり」とした上品な色合いを重ねあわせてみて、 それでも内からにじみでてくるケバさがあるなら、 これこそホンモノの個性だということになろう。
そのときにミナミの魅力は真に輝くのである。
もっと、 わが町を高く売らなくてはならない。
てっとりばやく売れる個性から売ってしまうと、 切り売りになってしまい、 いざ「都市格」をあげようという段になって慌てることになる。