もともとは、 アメリカにおいて、 多民族社会であり、 また、 高移動社会であるがゆえに起こった「自我喪失」の問題に取り組んだ、 精神分析学で使われた概念だと記憶している。
その後、 「アイデンティティ」ということばはさまざまな領域で用いられるようになり、 まちづくりや企業のイメージづくりなどにも使われるようになった。
わが国のまちづくりで、 「アイデンティティ」ということが言われるようになったのは、 高度経済成長期以降のことではなかろうか。
高度経済成長期における、 開発志向による自然や歴史の軽視と破壊、 それまで培われてきた地域文化の衰退と崩壊、 さらに地方から大都市への人口移動に伴う根なし草感の高まりのなかで、 わが国においても「ふるさと喪失」が叫ばれるようになった。
また、 経済の高度成長に向かって走り続けてきた日本人が、 経済一辺倒の社会に疲れ、 自分をそして自分が生活するまちをみつめ直すようになった。
こうした動きのなかから、 「アイデンティティ」という概念がさかんに使われるようになったのだと思う。
この間、 むしろ意図的に差別化、 個性化を図るという商業ベースでの動きがあったことも事実である。
「アイデンティティ」ということばが、 もともとは人の精神に関わる問題として使われるようになったということに注目するならば、 まちづくりにおいても、 それはまちの様態や単なるデザインだけの問題ではあるまい。
まちに関わる人間、 まちに働きかける主体としての人間=市民を含めて考えなければならない概念だと思う。
「アイデンティティ」は、 まちとその居住者を中心とする市民との関わり合いの、 時間的経過のなかで形成されていくものである。
「アイデンティティ」を形成する要素、 つまり自分の思いを込められる空間や事物や出来事(祭りなどを含めて)がどれだけまちのなかに蓄積されているか、 また、 そうした空間や事物を形成することにどれだけ参画することができるかということが重要である。
逆にいうならば、 市民のそうした思いを込められるようなまち、 込められる余地があるまちをつくっていくことが求められる。
そうした市民との関わりを基本に据えたまちづくりが極めて重要なことであると思う。
高度経済成長期以前にこうしたことが問題にならなかったのも、 まちには関わりを形成する場がさまざまなところに数多く用意されており、 住民がそうした場に思いを込めることが可能であったからであろう。
また、 地域の文化についても、 住民がその中心的な担い手であったからであろう。
近年、 市民が自らのまちの歴史や文化を掘り起こし、 それを中心に据えたまちづくりを進めることが各地で盛んである。
こうした市民によるまちづくりは、 まさにまちに思いを込めていく活動である。
まちに対する愛着を醸成し、 まちのアイデンティティ形成につながるものである。
プランナーやデザイナーも、 こうした市民による活動を支援し、 活動に連携することによって、 また、 ときにはそうした活動に真摯に学ぶことによって、 まちづくりを進めることが求められているのではないだろうか。