ふとした気晴らしに周りを歩くと、 様々な「ほっと」できる自然を感じさせる空間があることに気付かされる。
考えてみるだけでも、 川に沿って延々と長閑なみちの続く高野川沿い、 スポーツをする人が多い宝ヶ池、 犬の散歩が多い疎水のほとりなど、 水や緑に囲まれた公共空間がある。
この中で、 京都の歴史を感じさせてくれるところといえば、 疎水を挙げられるだろう。
疎水は、 哲学の道や南禅寺のインクラインなど、 様々な歴史のある土地の間を縫って見えかくれしながら京都を横断する水路だ。
しかしその歴史は京都にしてみればなかなか新しく、 明治になってからである。
当時の京都は、 大政奉還後に天皇が東国へ行幸したため1100年間帝都であるという支えを無くし、 討幕運動の果ての焼け野原の中、 30万の人口は20万にまで激減するという憂き目にあっていた。
その危機を救い現在の百万都市を築く元を作ったのが京都府知事達だった。
二代目知事檳槙村正直、 三代目北垣国道は、 明治維新の名の下に、 新しい政策を強引に進めていった。
日本最初の小学校と今に続く小学校区の設定、 理科研究所の舎密局の設立、 京都博覧会の開催、 新京極の建設、 日本最初の市街電車の開設。
「第二の奈良になるな」というのが合い言葉だった。
そのなかで琵琶湖疎水は、 蹴上げの水力発電所(世界2番目、 日本初)と共に、 北垣のもとで、 学校を卒業したばかりの田辺朔朗が指揮して建設された。
しかし当時は疎水建設に対して囂々たる非難があった。
確かにその頃までは、 京都の水は井戸を掘れば出るものであり、 江戸のように水質が悪いため早期に上水道が発達したのとはわけが違った。
福沢諭吉などは、 疎水などは何の役にも立たない、 そんな金があるなら古文化財の保存に使えと罵ったものだ。
確かに当時は新しい明治の前衛的な建造物が、 寺社の中を宙に渡るなどして、 それまでの景観を壊していた。
その言い分も分からないこともない。
しかし、 疎水はその後100年間、 実用の面で、 京都が100万都市・工業都市として自立するために必要な水を供給し続けた。
また現在は逆に、 景観の面で市民に貢献している。
南禅寺のインクラインは、 その程良いデザインと馴染む素材で時代を追うごとに一体化していき、 今では京都でなくては存在しない、 歴史の統合といった風情の風景を見せてくれる。
水路は延々と北に上り、 高野川を渡り、 鴨川を渡り、 紫明通りのところで地に潜るのだが、 その水路のある風景は、 桜や紅葉、 場所によっては欅などで緑化され、 遊歩道が整備されている。
紫明通りには美術館や喫茶店などが並び、 大きな木が疎水の跡をなぞるように弧を描き、 アカデミックな雰囲気を醸し出す。
東山の方では哲学の道とも呼ばれ、 親しまれている。
蛍の放流もされ、 哲学の道では勿論、 高野浄水場の辺でも蛍は夏の風物詩となっている。
また、 夏には子ども達がタモを持って、 広葉樹の陰の中で疎水に足を浸し、 小魚や虫を探す。
近所のお年寄りが、 夫婦で手を取り合って散歩をする。
京都はエコロジカルなアメニティシティだな、 と、 再確認できるような空間を、 疎水も、 生み出している。