蛍池という地名をようやく覚えた程度であった私は、 この意外な知名度の高さに驚かされた。
蛍池には伊丹空港に最寄りの阪急宝塚線の駅があり、 比較的大きなバスのターミナルも隣接している。
このためここは大阪の空の玄関口となっている。
一つはその地に住んでいない人が持つ、 マスコミなどを通じて概念化されたイメージであり、 もう一つはその地域に住む人々が何となく持っている、 場に染み着いたものである。
“外から”と“内から”のらしさと言い換えることもできる。
では、 蛍池らしさとは何であろうか? 私は一つの仮説をたてた。
〈蛍池は大阪の空の玄関だから、 “これが大阪や!”と表現している何かがあるだろう。
逆に、 住宅地や商店街の中には大阪のおっちゃんおばちゃんがいる下町っぽさも残っているかもしれない。
ならば蛍池では、 外と内の両面のらしさが互いに影響し合いながら“共存”し、 その狭間で微妙な“蛍池のアイディンティティ”を形成しているのではないだろうか?〉この仮説を持って実際に蛍池を散策に出かけた。
空港から外へ出た時、 私を迎えてくれたものは意外にも看板群であった。
様々な職種の全国区の有名企業の看板が、 まるで飛行機の中からでも見てくださいと言わんばかりの大きさで、 堂々と煌々と輝いていた。
これは全国の空港に共通する姿かもしれない。
しかしこの主張の強い、 無秩序にも見える看板群は、 道頓堀周辺のネオン群を彷彿させ、 大阪を表現しているのかもしれないと思われた。
狭い道路にひしめき建つ住宅群や商店街、 小さな市場もある。
空港を感じさせるものは「空港センター」や「国際センター」と銘打ったパチンコ屋だけであった。商店街の中華料理屋へ入ってみると、 地元の人が集まり、 酒を飲みながら好き勝手なことをしゃべっている、 いわゆるコテコテの大阪が展開されていた。
空港とは独立した地元の人のためのまちという印象である。
それらは先に述べた外と内のらしさと言うことができる。
だが、 それらは仮説と異なり、 “共存”するというよりも、 “並存”すると表現するにふさわしい気がする。
互いに影響し合うことなく、 独立しているのである。
前述の中華料理屋で、 お客さんが「関空ができてから、 店の前をじいさんとばあさんと犬と猫しか通らんようになった」と嘆いていた。
しかし、 外と内のらしさが併存するこのまちなら、 この店にある下町らしい雰囲気は変わっていきそうにない。
この活気が続いていくことに私は内心ほっとする。
しかし私の考察が正しければ、 蛍池は空港のないまちと何ら変わらなくなっていくことになる。
蛍池は空港のあるまちとしては確立されてないのかもしれない。