」
「大学は何処にあるの?」と聞かれると、 「大阪の東、 生駒山の麓。
山は近いけど外環や阪奈が近くに通っているから空気は悪いし、 山には鉄塔とかホテルが建っているし、 中途半端な田舎かな」と答えていた。
冒頭の言葉を聞いてまず考えたのは「アイデンティティのない街なんてあるのか?」。
「そんなはずはない」と思いつつ、 大学まで歩いた環状線沿いの雑然とした光景や鉄塔が立ち並ぶキャンパスからの風景が頭に浮かぶ。
それでは「鉄塔がアイデンティティなのか?」。
この疑問はすぐに解決した。
鉄塔が立っていようが生駒山は山としてこの場所に存在している。
何千年も前からこの場所の風景の骨格となり、 そしてずっと変わらず四季ごとに姿を変え、 一見雑然としたこの街に潤いを与えてくれている「心の拠り所」である。
キャンパスから見える山は、 ここ何十年かの私たちの行為によって「らしさ」を失ってしまった。
その要因の一つである「鉄塔」がアイデンティティであるはずがない。
本当に大切なものを見失っていた。
外環より山側にほぼ平行に通る「東高野街道」である。
それは所々に歴史的な町並みを残しているだけでなく、 子供もお年寄りも安心して歩ける道を提供している。
私はこの旧街道の存在を知ってからは、 歩くだけでストレスのたまる外環沿いよりも、 この道を朝の散歩気分で好んで歩いている。
そして今まで出会うことのなかった、 人が生活する光景や鳥の声やお寺の鐘の音を知った。
この道の存在を知らなければ、 私はずっと外環沿いをうんざりしながら歩いていただろう。
アイデンティティを「知る」、 そして「伝える」ことの重要さを感じた。
例えば、 野崎駅から北側に歩いていくと「野崎観音」がある。
5月の「野崎参り」の時期になると駅周辺や商店街に飾り付けがされて賑やかになるが、 その「野崎参り」をデザインモチーフにした河川整備が駅前で行われている。
始めは安易だと思ったが果たして本当にそうなのだろうか。
「野崎観音」を実際に訪ねてみると、 そこは親子で散歩する場であり、 お年寄りが小さな子供と景色を眺める場であり、 主婦が車での食料品の販売を目当てに集まる場であった。
観光客のためだけではない、 地元の人々の生活の場でもあるのだ。
この40年程で人口が急増したこの街では、 住民の中でも街の本当の「良さ」を知らない人は多いはずだ。
そういう人たちに「伝える」ため、 そして同じ「志し」をもつためであると考えるならば、 必ずしも間違っているとは言えないのではないか。
冒頭の言葉が大学付近に住む人の口から出ただけに、 そう思うのである。
この文章中にはフォーラム当日の冊子の中の言葉を使わさせて頂いた。
「アイデンティティって何?立場は?」と悩み、 言葉を拾い集めて考えてみた。
その中で井口さんの「アイデンティティとは?自分自身の生活にそれを求めたい」という言葉が支えになった。
「大阪で一番近い田舎で昔の自然と情緒が残っている所、 それが野崎の里である」(「野崎観音」パンフレットより)。
私はこれを大学生活を過ごしたこの街のアイデンティティであるとしたい。