ところで、 今「主体」の話があったんですが、 例えば明日香村には、 外部からいろんな人が入ってきていますよね。 そのへんの具体的な話があれば、 宮前さんからお願いします。
なぜ今、 参加が話題になるかを考えると、 いくつか原因があると思うんです。
まず、 世の中に多少ゆとりがでてきた、 情報がいろいろ入るようになった。 今までの飯を食うのが精一杯という時代から、 いわゆる余暇の時代になり、 その中でなにか自己実現したくなってきた。 そういった中で自分の居心地の良い場所とか、 いたい場所とか、 アイデンティティとか、 そういうものを確認するための“参加”が一つあると思うんです。
例えば明日香村なんですが、 今ものすごくブームになっているんです。 見てて面白いのは、 いわゆる在来の「システム」の中に、 いわゆる「外人部隊」が入ってくると、 そこに摩擦があるんです、 最初は。
今問題になっているのは「ボランティア公害」です。 棚田オーナーと称して山ほど人が行って、 あそこの山が汚らしいだの、 去年の台風で倒れた木をどうにかせいだの、 あんたら村に住んでて観光客が来てくれてんのにサボったらあかん、 なんていうふうに、 町から来たオバちゃんに地元の人が怒られています。 で、 村の人はいつのまにかボランティアに村がのっとられるのでないかと、 すごい恐怖感を持っているのです。
しかし、 連中が言ってるのは「どうせ長続きするわけがない」「遊びに来てるだけなんだから、 いつかは帰るから耐えとこうか」なんてことです。 実はそこに対話があまりないんです。
最初に言った自己実現という視点から見ると、 まちづくりだとかいった難しい話をする前に「とにかくみんな出かけようじゃないか」というのがすごく大事な話です。 気軽に行った人が、 外から見てものを言う。 それを受け入れられないような地域社会は、 これからの世の中では全国民的な必要に応えるられる社会ではありません。 そういうところは生きていけなくなるんではないかと思います。 そういう意味では、 「押しかけ型参加」がいい意味で機能するようなシステムをつくっていかないと、 閉塞状況になっていくんじゃないかと思うのです。
自閉症的に「どうしてもここでやらなきゃしゃあない」と一生懸命方式でやっていくと、 自分で自分の尻尾を食って行くみたいな感じでどんどん縮小していくのに対して、 参加型は、 外から穴を開けてやると一挙にふくらむ、 そういう契機になってゆくべきです。 言い換えれば、 外からの参加がお互いのためにもいいんだというところに行きつくまで、 長い目で見なければ、 と思います。
最近、 公共事業に関する法規のほとんどが改正されました。 河川法も昔は第1条に「洪水の防御をすること、 要するに国土保全が目的だ」と書いてあったのが、 最近では「河川の環境を保全するために住民の意見を聞きながら河川を管理するのが目的だ」というように100%違う言い方になっています。 そういうものを取りこんでいかなければ戦後型の公共事業は一切立ち行かなくなっています。
ただ、 役所の方は“参加”といっても公聴会ぐらいでしか考えていない点はあります。 もっと参加を上手に取りいれていかなくてはいけないのですが。
私は参加については、 この3つの側面で議論していくと、 何かが出てくるのではないかと考えています。
地縁的な社会には、 コミュニティのなかのしがらみも含めて、 いろんな関係が蓄積されています。 しかしそこで解けないような問題が、 外からの参加によって一旦地権や利権から離れて議論できるようになることがあります。
例えば「地域の環境資源としてこの山をどのようにきれいに維持していくのか」というテーマに、 いろいろな人が、 外の人も含めて参加していると、 「うちの山や」とか「ここでなんぼ儲かるねん」といった発想を越える議論になるかもしれません。
同じことは都会でもあります。 横浜に話を聞きに行ったところ「この川をどう河川改修するか」というのがテーマでした。 この問題の解決だけだと今までと同じ公共事業への参加になるのですが、 「その川の生物をどうしようか」とか「周りの田んぼも含めた環境をどうするのか」というテーマが、 地元とは別に川の環境問題を考える活動している人などがうまく参加することによってでてきて、 問題が広がった。 そういう外からの参加によって地域内の利害を超えた議論の場を設定することが出来たということです。
1つ1つの建物は個人のものでも、 それが集まって形成される街並みや景観はパブリックな意味をもちます。 田んぼや山は個人の生産現場であっても、 今では環境問題とリンクしているし、 公共性概念の共有化に外部の参加が有効なところがあります。
システム論的に見た時に、 外からの参加というのはどう考えるのでしょうか。
伊東:
暫定的システム(主体形成)と言いましたが、 何も外から、 内からといった議論ではありません。 暫定的につくられた合意の場に、 途中から「川を大事にしましょう」という人たちが入ってくるとしたら、 システムの自己改変ということです。 目的も当然変わるわけです。
佐々木:
参加はシステムとして動いているのだろうかという疑問があるんですが。 システムというと一つの体系でしょう? 体系として動かないのが参加なのではないかという気がするのですが。
伊東:
システムを硬直的に考えると、 動かしがたい体系となり、 そのイメージでは参加とはほど遠いのは、 その通りです。 そこが「自己組織性」というところの含意なのだろうと、 思います。 自らを変えていくことと、 それから単純な個人単位の動きではない、 個人主義の発想ではなく、 むしろ人が参加を通して、 他の人や自然や文化的なものに結びついていくことから「システム」という言葉を使ってもいいのではないでしょうか。 どうしても気に入らなければ、 別に他の言葉でもかまいません。
外部からの参加を考える
自己実現としての参加
宮前洋一〔スペースビジョン〕:
公共性と参加
もう一つは、 伊東先生が少しだけ触れられた「公共性」です。 今の行政自身は住民の思っていることとか、 町の話とか、 具体的に起こっている様々な問題に対して相当鈍感になっています。 今の制度がそういうことを保証していないということもあって、 そうなっているのでしょうが、 とにかく異議申立てをしてゆく必要があります。 民主主義の世界ですから、 あらゆる手段があるわけです。 とにかく直接、 異議申立てをしなくちゃいかん。 言い換えれば批判的な意味での参加を強調しなきゃいかん、 そういう局面も絶対あると思います。
公共事業と参加
最後は今の行政のシステム自身が参加を事業の目的におかないと事業自体がなりたたなくなってきていることです。
公共性を深める外部からの参加
小浦:
システム論から見ると
丸茂:
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