周りのことを考えない建築物が百年後に残っているかと言えば、 残っていないと思います。 それに対して、 今まで積み重ねてこられた、 地域の祭であったり自然であったり、 村の形態といったものは、 百年後でも残ると思うんです。 そういう良さを元に、 引っぱり出すということはプロの役割だと思うんです。 デザインやモノづくりといった景観のどうしても専門家が関わらざるを得ない部分があり、 その点、 まちづくりとは違うのではないかという思いを持っています。
小浦:
景観というのは、 一つひとつの家なり道なり山なりの集合的環境ですよね。 関わり方も含めて。 その一つひとつのなかに持っている人、 つくろうとする人たちの意志が出るわけで、 その意志の方が問題だと思うんです。 だから参加というのは、 予定調和的にデザインがよくなるとか、 結果がよくなるということではなくて、 問題は住民が、 またそこに関わる人たち相互が、 自らを調整し、 主体と客体を含む環境について共通認識がもてるかということだと思う。
澤:
しかし住民レベルでやることといえば、 例えばまちに花を植えましょうという時に、 フラワーポットの文字の中に「まちを美しく」と書いてあったりするわけです。 それは、 景観を考えているかというと考えていないと私は思います。
石東:
その例は確かに考えていないと思います。 ただ住民の意識を喚起して、 さらに長続きさせようという意味からは重要なコピーだと思うんです。 そういうことも含めて瞬間的に景観を捉えるのではなく、 書いてあることで気づかなかった人も気づくんじゃないか、 それによって長期的に見ればよい景観づくりが続いていくんじゃないかという気がします。
田中(三):
あれはきれいに植えた花の上に荷物を置くもんですから、 翌日には枯れてしまう。 それを防止するために付けているんです。
石東:
ですからそういう事もいわば住民の意識の喚起ですよね。 意識の喚起も重要な要素だと思うんです。
澤:
通常は意識の喚起まで行ってないことが多いんじゃないでしょうか。
いや、 それはしないといけないと思います。
私も最近ですが、 灘の浜で路地花壇をつくったんです。 おじいちゃん、 おばあちゃんたちが、 一日テレビを見て過ごしていないで下へ降りてきてほしいと思って、 1m角でたくさんつくったんです。 ガーデンクラブもつくって、 毎月一回集まってやっています注3。
ところが我々が計画した花が畑に変わって行くんですね。 トマト・きゅうり、 あげくはつる薔薇のかわりにひょうたんがなっていたりして…(笑)。 でもそれは実に面白い傾向だと思うんです。 それが生活風景で、 灘の浜の人たちがそれでいいと思えばそれでいいんです。
ただ、 一部の人は嫌だという人もいて、 ガーデンクラブで討論しているわけです。 だからそこから対話が始まる。 そうすると路地花壇は個人個人に所属しながら、 それが見られことで共用のものになっていくという暗黙の合意が出てくるわけです。 それが実は文化風景であるという感じがして、 デザイナーとしては思いもかけない展開でしたが、 それを誘発する場所をつくることができて僕らは大変喜んでいるわけです。
それをまた違う形で利用してもらっています。 あるおじいちゃんなどは、 自分の家の前の共用のベンチに葡萄の棚をつくってるんですが、 それもみんな喜んでいるわけです。 その風景のあり方は、 江戸のまちのように個人個人の生活の匂いが連続していて、 その集合体がまちの風景となっているのではないかとかと思うんです。 先にシステムをつくってしまうのではなくて、 それを造り出す風景をデザイナーである僕たちがどれだけ誘発できるのかというところに参加型の環境デザインの醍醐味があるんだということです。
ですからデザイナーも参加のシステムをつくる時だけお手伝いするのではなくて、 つくってからお手伝いしないと勉強にならないという感じがします。
先ほどの三面張りよりも多自然型がいいという話について、 痛いところを突っ込まれたなと思います。 私たちの現場ではそういう「すり込み」が実は多いもんですから、 意識を変えていかなければいけない部分もあると思います。
地元の方から「三面張りがいい」と言われて三面張りにしてもいいんですが、 行政が納得しない部分があって、 うまくいかない面もあるんです。 出来上がったものが住民にとって善であれば、 そういうふうにしてしまえばいいのですが、 なかなか出来る土壌がないですし、 逆にいうと実際に出来るのかなという不安もあります。
実際、 お手伝いしていて、 こんなにしてしまっていいのかなと感じたりすることも多く、 佐々木さんのように「私たちにとっても勉強になる」と思える段階までいかないことが多いのです。 参加というものの主体が地域であり地元であるならば、 ある範囲までは地元の方にやっていただければ、 その方がいいなとは思うのですが、 なかなかうまくいかないですね。
石東:
国でもいいし専門家でもいいんですが、 三面張りから自然張りになったのは何故かというところを住民に説明し説得しなければならないのではないですか。
平田:
それはもちろん、 そういう技術的な問題や根拠に関しては情報をきちんと提供して納得してもらう段階がないと話は始まらないと思っています。
参加というのは住民の言う通りにするものだとは思いません。 一緒に共同学習するわけですから、 そこで討論して一番いいものをひねり出すのが参加の最も望ましい形ではないかと思います。 だから住民が望んでいても、 自分が正しいと思えば、 徹底的にその場で討論しなければいけないし、 100%通るわけでもないですから、 自分も反省する所もあるだろうし逆の場合もある。 そこで話し合うことでみんなが共有できるものが出来るということではないでしょうか。
例えば家を建てる時も、 施主の言う通り聞いていたほうがいいという話と、 自分の設計思想をきちんと説明してやっていった方がいいという話があると思うんですが、 やはりそこで共有できる世界を築いて一緒に考え直すということでこそ、 いい住宅ができるのだと思います。
それから地元の人たちに忘れられている地域のよさを、 外から入った人に指摘してもらって再発見するということについては、 プロが必要なのかもしれません。 伝統的町並み保存なども最初はそういうパターンが多かったと思います。 しかし、 プロの仕事としては「共有して検証したり残していかなければならないのは、 最低こういうことですよ」、 もっとうまくいけば「この辺まで残しましょうね」ということを提示してあげるまでで、 まちには圧倒的に住宅が多いわけですから、 あとはそこに住んでいる人が実現していくしかありません。 これはもうプロの仕事ではないですよね。 そうするとプロの仕事というのは人々の意識改革つながっていかなければならないということです。
デザインナーの役割
住民には任せられないことがある
澤:
住民の生活風景を引き出すのもデザイナーの役割
佐々木:
注3:路地花壇
都市環境デザインセミナー「HAT神戸・東部新都心に見るマスタープランの役割と課題」参照)。
任せられることと、 説得すべきこと
平田:
人々の共有する世界を築き、 意識改革をすること
横山宜致〔都市緑地研究所〕:
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